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[[画像:Pomerania10FieldCoats.gif|thumb|紋章]]'''ポメラニア'''、'''ポモージェ'''、'''ポンメルン'''([[ポーランド語]]: Pomorze, [[ドイツ語]]: Pommern, Pommerellen, ポメラニア語([[カシューブ語]]): Pòmòrze, Pòmòrskô, [[ラテン語]]、[[英語]]: Pomerania, Pomorania)は、[[ポーランド]]北西部から[[ドイツ]]北東部にかけて広がる地域。伝統的、或は地勢的には北に[[バルト海]]、東西を[[オーデル川]]と[[ヴィスワ川]]にはさまれた地域である。
 
土地が痩せていて[[農業]]に適さず、古くから海岸より奥は人がほとんど住んでいなかった。[[紀元前500年]]ころから[[民族移動時代]]まで[[ゲルマン系]]の部族([[ゴート族]]、[[ルギ族]]など)が海岸地方一帯に住んでおり、紀元後6世紀頃以来[[スラヴ人|スラヴ系]]の[[カシュープ族]]、[[ポメラニア族]]、[[オボトリト族]]、[[ルジャニ族]]などが住むようになった。特にオボトリト族は[[ユトランド半島]]の近くまで進出した。[[中世]]以降いわゆる[[東方民]]により低地ドイツ系の住民が増えていった。古くから[[ポーランド王国]]と[[デンマーク]]、[[スウェーデン]]、[[ドイツ騎士団]]、[[ザクセン公国]]など周辺諸国との間で争奪されてきた。ポモージェのほとんどは低地で、海岸の砂地のほかは[[マツ]]・[[ブナ]]・[[ナラ]]・カバなどの原生林や沼沢地が多くを占めている。農業に適さない土地であり、東方の[[プロイセン]]のほうが豊かだったため、[[中世]]の植民者たちも、海岸地帯以外にはほとんど足を踏み入れることはなかった。[[13世紀]]以降[[神聖ローマ帝国]]領、[[17世紀]]にプロイセン領になり[[ドイツ統一]]により[[ドイツ帝国]]領になった。[[1939年]]に[[第二次世界大戦]]が始まると[[ポーランド人|ポーランド系住民]]は[[ナチス・ドイツ]]によってすべての財産を奪われ東方へと強制追放された。[[1945年]]の[[ポツダム協定]]の結果、ポモージェの大半にあたるオーデル川以東の地域はポーランド領に併合された。ドイツ系住民は[[オーデル・ナイセ線]]以西に[[ドイツ人追放|強制追放]]され、戦争中に東方へ強制追放されていた[[ポーランド人]]が、ソ連領に併合された旧ポーランド領に住んでいた人々と共に戻ってきた。[[シュチェチン]]、[[コウォブジェク]]、[[グダニスク]]などといった主要都市の市街地は戦争でほとんどすべて破壊され人が住めない状態であったが、残された史料をもとにポーランド市民が数十年をかけて中世の姿に再建した。[[冷戦]]時代は大規模な[[ソ連軍]]が駐屯していた。1990年代に入り、駐留していたソ連軍はこの地から引き上げた。
 
ポーランド側は、南は[[ノテチ川]](ネッツェ川)、西は[[オーデル川|オドラ川]](オーデル川)までがポーランド領ポモージェ地方で、東西240km、南北140km、面積はおよそ33,600平方kmにおよぶ。[[ザホドニェ・ポモージェ県|西ポモージェ県]]、[[クヤヴィ・ポモージェ県]]、[[ポモージェ県]]の3つの県に分けられている。ドイツ側は[[メクレンブルク=フォアポンメルン州]]の東部にあたる。