「黎元洪」の版間の差分

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:黎元洪としては「廃督裁兵を実行すれば利権を失う各派は抵抗するだろうし、自分にはそれらに対抗するだけの軍事力はないが、就任前に直隷派の了承を取ったからには直隷派の軍事力を後ろ盾にできるだろう」と考えていた。だが、実際には直隷派も「各派の1つ」であり、当初はこれを受諾した直隷派も実行段階になると支援は消極的になった。このため、廃督裁兵に成功した省は[[江西省]]1省のみという結果に終わった。またこの時期、何とか名目だけでもと7人の文官を省長として任命するが、各地で地元勢の反対に遭ったために実際に着任したのはわずか2人だけだった。
:こうして軍事力の中央集権も文官の派遣も失敗したため、黎元洪の目指した「中央集権国家への移行」は夢と消える。
こうしては就任からわずか1ヶ月の間に黎元洪の腹案はことごとく失敗し、求心力を失った大総統は益々直隷派の傀儡になっていく。また、傀儡となった黎元洪の更なる悩みの種として、直隷派の首魁である曹錕と呉佩孚が仲違いを始めた。曹錕・呉佩孚共に黎元洪には直接意見を言ってくるので、黎元洪は「2人の傀儡」として双方の顔色をうかがいながら迷走しなければならなくなった。
 
黎元洪の迷走はそのまま国政の迷走であり、その有様は黎元洪在任中のわずか1年の間に6回も内閣が修正された事でも見て取れる。迷走を続けた黎元洪は、翌1923年6月に半ば直隷派に放逐される形で辞職した。黎元洪は直隷派に包囲された自宅にこもったり、北京にいられなくなって天津に脱出する際も大総統の印璽を持ち出して天津に仮政府を設置しようとするなど、ギリギリまで抵抗を試みたが、結局印璽は天津に脱出する途上で直隷派に奪われてしまった。黎元洪は天津のイギリス[[租界]]に逃げ延びた。