「クィントゥス・ファビウス・マクシムス」の版間の差分

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ファビウスの独裁官としての任期が切れると、[[グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス]]とマルクス・アティリウス・レグルスの両執政官に指揮権が返上された。翌[[紀元前216年]]、[[ガイウス・テレンティウス・ウァロ]]、[[ルキウス・アエミリウス・パウルス]]の両名が執政官に任命された。ファビウスの消極策に否定的だったウァロは、ハンニバルに対して決戦を挑んだが、[[カンナエの戦い]]で逆に壊滅的な打撃を受けた。ここに至って元老院も民衆も、ハンニバルに正面から挑んでも勝てないと気がつき、ファビウスの戦略の正しさを認めた。クンクタトルは「のろま、ぐず」といった蔑称から「細心、周到」といった敬称へと意味を変えた。ファビウスは[[マルクス・クラウディウス・マルケッルス]]と共に執政官に選出され、再び持久戦略を展開した。以降、イタリア半島のハンニバルとローマ軍は、小競り合いこそするものの、決定的な衝突をすることはなかった。戦場は[[シチリア島]]、[[イベリア半島]]、[[北アフリカ]]へと移っていったのである。ファビウスの目論見どおり、孤立したハンニバルとその軍隊は弱体化していき、やがてアフリカへの帰還を余儀なくされた。
 
ファビウスの軍事的成功としては[[紀元前209年]]のタレントゥム制圧が上げられるが、これは城方の内応によるもので、彼の戦果とするのは無理があるかもしれない。このように目立った武功はないが、かといって彼の軍事的才能が否定されるわけではない。ファビウスの真骨頂は戦略面にあったからである。彼は独裁官を務めた後、三度執政官に選出されている。その優れた指導力と防御を重視する戦略から'''"ローマの盾"'''と称された(対してマルケッルスは「ローマの剣」と称された)
 
ファビウスは[[大スキピオ]]のアフリカ遠征には、[[大カトー]]とともに反対していた。これはファビウスが、ハンニバルのイタリア半島からの排除を最優先としていたためと考えられている。