「奥田重盛」の版間の差分

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父は奥田孫太夫。母は久米半右衛門([[相馬長胤]]家臣)女。奥田家は[[志摩国]][[鳥羽藩]][[内藤氏|内藤家]]の家臣で、兵右衛門は[[寛文]]2年([[1662年]])に[[内藤忠政|内藤飛騨守忠政]]の娘波知が赤穂藩主[[浅野長友|浅野采女正長友]]([[浅野長矩]]の父)に嫁したとき付人として赤穂藩に移り江戸藩邸でつとめた。
 
[[延宝]]8年([[1680年]])[[内藤忠勝|内藤和泉守忠勝]]が芝[[増上寺]]での[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家綱|家綱]]の葬儀の場で[[永井尚長|永井信濃守尚長]]を殺害し、鳥羽藩は[[改易|お取り潰し]]となった。このため父の孫太夫は[[浪人 (武士)|浪人]]となったが、兵右衛門はそのまま赤穂藩に仕えた。
 
兵右衛門は[[江戸]]で剣客として知られた[[堀内源太左衛門]]に学び、[[堀部安兵衛]]とともに高弟に数えられ、大太刀の使い手であった。兵右衛門には男子がなく、[[近松行重|近松勘六]]の弟[[奥田行高|貞右衛門]]を養子に迎える。