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享保9年(1724年)1月19日、[[三河吉田藩]]主・松平信祝の次男として生まれる。[[寛保]]3年([[1743年]])に第7代藩主・中川久慶が死去したため、その養子として12月21日に家督を継ぎ、藩主となった。同年12月28日に従五位下、修理大夫に叙任する。養子になった際、名を信安から久貞と改めた。
[[延享]]元年([[1744年]])から無名の[[
このため、[[天明]]6年([[1786年]])から[[井上並古]]を登用し、助合制度の設置や郷村再建、[[藩札]]発行による財政改革を行なうが、効果は無かった。また、由学館や経武館、博済館など[[藩校]]の創設も行ない、文治教育の普及に尽力し、相次ぐ災害で苦しむ領民に対して窮民養成所を創設している。
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