「天誅組の変」の版間の差分

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文久3年3月、将軍家茂が上洛。孝明天皇は攘夷祈願のため[[賀茂神社|上下両賀茂社]]と[[石清水八幡宮]]へ行幸する。しかし、幕府は一向に攘夷を決行しようとはしなかった。[[長州藩]]をはじめとする攘夷派は憤慨する。朝廷は幕府に執拗に攘夷の決行を迫り、やむなく、幕府は5月10日をもって攘夷を決行すると答えた。
 
5月10日、幕府が攘夷を実行に移すことはなかったが、長州藩はこれを信じて[[下関海峡]]を通過する[[アメリカ合衆国|アメリカ]]船を砲撃して遂に攘夷を決行してしまった([[下関戦争]])。この外国船打ち払いには、過激な攘夷派[[公卿]]の[[侍従]][[中山忠光]]が長州藩に招かれて加わっていた。忠光の[[京都|京]]からの出奔には[[土佐藩|土佐]][[脱藩]][[浪人 (武士)|浪士]]の[[吉村寅太郎]]が加担している。
 
長州藩は[[フランス]]船、[[オランダ]]船を砲撃して、意気を大いに揚げ、朝廷からも攘夷決行を称賛する御沙汰が下される。だが、6月に入って米仏艦隊が報復攻撃し、長州藩は敗北してしまう。7月、中山忠光は京へ戻るが、謹慎を命じられ、侍従の職も剥奪されてしまう。