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台湾[[彰化市]]生まれ。郷紳・名望家階級出身。父親の許乃邦は[[京都帝国大学]]法学部、[[東京帝国大学]]経済学部で学んだ法律家、母親は東京女子医学専門学校卒の医者。祖父の許嘉種は台湾文化協会調査部長時代に台湾議会設置運動を行い日本警察に逮捕拘留されたことがある。伯父の許乃昌は[[陳独秀]]の推薦をうけ[[ソビエト連邦]][[モスクワ中山大学]]で学んだ台湾でも相当有名な左派の政治運動家。1947年の[[二・二八事件]]では祖父、父、伯父が左翼分子として[[中国国民党|国民党]]から指名手配を受けた。夫人の[[盧千恵]]とは日本留学中に知り合い、ともに台湾独立運動に関わってきた。
 
===日本での留学・学者生活===
[[国立台湾師範大学]]附属高校(高級中学)を経て、1957年に[[台湾大学|国立台湾大学]]法学部卒業([[連戦]]国民党名誉主席とは高校・大学の同級生)。その後、[[早稲田大学]]、[[東京大学]]で学び、1968年、東京大学法学博士取得。その後、津田塾大学で助教授、教授として約30年の教員生活を送った。1972年に東京大学出版会より『日本統治下の台湾――抵抗と弾圧』を上梓。このなかで「植民地統治では差別待遇が必ずあり、偏見と圧迫の制度のなかで各種の抵抗運動が生まれる。それらの抵抗を根絶する道は、唯一植民地統治制度を徹底的に廃止することにほかならない」と記している。中国語版は2006年にようやく出版されたが、台湾の学者からは「台湾政治史のバイブルとなる名著であり、台湾史を研究する者にとって必読の歴史専門書」と評されている<ref>[http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=46759&ctNode=3591&mp=202&nowPage=59&pagesize=30 書評:『日本統治下の台湾』中文版は今なお台湾政治史のバイブル](『台湾週報』2006/2/10)</ref>。なお、原著の日本語版は2008年に復刊している。
 
===台湾独立運動への関与===
一方、日本留学直後の1960年に台湾独立運動団体「[[台湾青年社]]」(後に台湾青年会・台湾青年独立連盟に改組)に加入して以来、台湾独立運動にも身を投じてきた。機関紙「台湾青年」にペンネーム「十心」「高見信」で数多くの論文を執筆したため、国民党政府により旅券を剥奪、在外反政府分子としてブラックリストに掲載され、約30年間、日本で事実上の亡命生活を余儀なくされた。1970年「[[台湾独立連盟]]」の発足とともに中央委員に就任。1987年には、改組された「[[台湾独立建国連盟]]」の総本部主席を務めた。1989年に台湾の月刊誌『自由時代』に「台湾共和国憲法草案」を寄稿。同誌は発禁処分となり、反乱罪に問われた同誌発行人の[[鄭南榕]](てい・なんよう)は抗議の焼身自殺を遂げた。
 
===帰台後の政治活動===
1992年、ブラックリストが解除となり帰国。台湾文化学院院長、[[台湾建国党]]主席に就任。1995年と1998年に[[中華民国立法院|立法委員]](国会議員に相当)選挙に立候補するも、落選している。
 
2000年、[[民進党]]政権が誕生すると、[[呂秀蓮]]副総統の求めに応じて[[総統府]]人権諮問小組の召集人(委員長)および呂副総統主宰の「台湾心会」台中分会会長に就任。2003年、台湾の民主化に貢献した外国人を招待した催しで、台湾人の人権問題にとりくんだ[[大野正男]]、[[大島孝一]]等に対し感謝の意を述べている。
 
===駐日代表就任以後===
[[陳水扁]]総統再選を受け、2004年7月5日、台北駐日経済文化代表処代表(駐日代表)に就任、約4年間務めた。在任中は、'''台湾人観光客の査証免除(ノービザ)の恒久化'''、'''運転免許証の日台相互承認'''を実現。日台関係を年間250万人が相互に行き来する関係にまで発展させた。