「エドワード・ケイヴ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
TXiKiBoT (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: eo:Edward Cave
編集の要約なし
1行目:
[[画像:Edward Cave.jpg|thumb|right|275px|フランシス・ケイトが描いたエドワード・ケイヴの肖像画。エドワード・スクライブが版画にしたもの。1740年頃。]]
[[画像:The Gentleman's Magazine, May 1759.jpg|thumb|right|275px|1759年5月のザ・ジェントルンズ・マガジン]]
'''エドワード・ケイヴ'''(Edward Cave、1691年2月27日 - 1754年1月10日)は、イギリスの印刷業者、編集者にして出版業者。「ザ・ジェントルンズ・マガジン」(The Gentleman's Magazine)という、'''今日的な意味での世界最初の[[雑誌]]'''を発刊したことで知られている。
 
ケイヴは、靴屋の息子として、[[ウォリックシャー]]の[[ラグビー (地名)|ラグビー]]の近郊、ニュートンに生まれ、そこのグラマー・スクールに学んだ。しかし、彼は校内での盗みを校長から厳しく糾弾され、挙句の果てに放校処分になった。その後彼は材木商、記者、印刷屋などといった様々な仕事を経験する。そこで彼は、教育を受けた人たちが興味を持つような話題を、商売から文学に至るまで毎日トピックスを掲載する雑誌を見てはどうだろうかと思いつき、それをロンドンの印刷屋や本屋にやってみないかと打診した。しかしだれもそれに興味を示さなかったので、ケイヴはそれを自分自身で手掛けることにした。「ザ・ジェントルンズ・マガジン」は、1731年に発刊され、当時の瞬く間に当時もっとも影響力のある、そしてもっとも模倣された雑誌となったそれこの雑誌はケイヴにも大きな財産をもたらした。
 
ケイヴは、目先の効く商売人でもあった。彼はその全精力を雑誌に傾注し、クラ―ケンウェルのセント・ジョンズ・ゲイトにあった彼の事務所をほとんど空けるということはなかった。彼は数多くの寄稿者を使い、その中でも最も有名だったのが、かの[[サミュエル・ジョンソン]]である。ジョンソンは、常に長年にわたり彼の主たる雇用主となってくれたケイヴに感謝していた。またケイヴは、自分でも''シルバヌス・アーバン''の名で、雑誌にいくつかの記事を寄稿していた。
ケイヴは、自分でも''シルバヌス・アーバン''の名で、雑誌にいくつかの記事を寄稿していた。
 
彼は、ルイス・ポールから、彼が特許を持っていた250台の軸紡績(roller-spinning machine)のための免許を取得したりしている。これは、[[水紡績機]]の前のものになる。
彼は、ルイス・ポールから、250台の軸紡績機(roller-spinning machine)のための免許を取得している。これは、[[水紡績機]]の前身である。[[1742年]]、彼はノ―ザンプトンの[[大理石]]の加工工場を買収し、これを綿紡績工場に作り替えた。こがおそらく世界初の水力による世界初の紡績工場だと思われる。この工場はおそらく利益が上がったものと思われるが、それはごく控えめに言って利益が出るといったレベルのものであった。この工場[[1761年(]](あるいは、それ以後間もなく)閉鎖された。
 
ケイブは[[痛風]]を患っており、[[1754年]]に死去。クラ―ケンウェルのセント・ジェームス教会に埋葬された。
 
== 外部リンク ==