'''鎮守府'''('''ちんじゅふ''')は、[[古代]]の[[陸奥国]]に置かれた[[軍政]]をつかさどる役所。その長官である[[将軍]]の名が 729 年([[天平]] 1)に初めて見えることから、[[奈良時代]]前半には鎮守府が設置されたと思われる。
鎮守府の前身を《[[続日本紀]]》に見える〈[[鎮所]](ちんじょ)〉とする考え方が根強い。しかし〈、鎮所〉は鎮守府の存在と密接に関連した呼称であるが、本来正式な機関名としての鎮守府とは同列に置いて比較すべき用語ではない。
鎮守府ははじめ、[[多賀城]]に置かれた。
759 年([[天平宝字]] 3)には将軍以下の[[俸料]](ほうりよう)と付人の給付が陸奥の[[国司]]と同じと決められた。このころより、[[鎮守将軍]]はほぼ 4 年ごとに任命された。この時期の将軍は[[按察使]](あぜち)または[[陸奥守]]を兼任するのが通例で、なかには 3 官兼任する場合もあった。一般的に、[[征夷]]の際には、[[征夷大将軍]]が任命され、[[征夷軍]]が編成される。鎮守府は通常の守備と[[城柵]](じょうさく)の造営、維持など陸奥国内の軍政を主たる任務としていた。
802 年([[延暦]] 21)[[坂上田村麻呂]]によって[[胆沢城]](いさわじょう)が造営されると、多賀城から鎮守府が移された。この移転後の鎮守将軍の[[位階]]は、だいたい以前の四位から五位相当に下がり、[[陸奥介]]を兼務する例も見られた。また[[機構]]整備も積極的に進められた。
例えば、812 年([[弘仁]] 3)には、鎮守府の定員が将軍 1 名、[[軍監]](ぐんげん)1 名、[[軍曹]] 2 名、[[医師]]・[[弩師]](どし)各 1 名と定められた。
834 年([[承和]] 1)には、もとは[[陸奥国印]]を使っていたのが、新たに鎮守府の印一面を賜っている。このように胆沢城への遷置後の鎮守府は、多賀城にある陸奥[[国府]]と併存した形で、いわば〈第二2国府〉のような役割をにない、[[胆沢]]の地(現在の[[岩手県]]南部一帯)を治めた。
このように鎮守府の本来の性格はまさにこの平常時での統治であり、非常時の征討ではない。[[平安時代]]中期以後になると、鎮守府本来の役割は失われ、鎮守府将軍の位のみが[[武門の誉れ]]として受け継がれた。
== 海軍 鎮守府 ==
'''鎮守府'''('''ちんじゅふ''')は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の機関で、海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した機関。
その前身は [[1871 年]]([[明治]] 4)[[兵部省]]内に設置された[[海軍提督府]]である。[[1875 年]]日本周辺を東西の 2 海面に分け、東西両指揮官の指揮下に置くことになり、 [[1876 年[[]]東海]]、[[西海]]の両鎮守府を設置することになった。
[[東海鎮守府]]はまず[[横浜市|横浜]]に仮設され([[西海鎮守府]]は開設されず)、[[1884 年]]には[[横須賀市|横須賀]]に移転され、[[横須賀鎮守府]]と改称された。 [[1886 年]][[海軍条例]]の制定により、[[日本の沿岸]]、[[海面]]を 5 海軍区に分け、各[[海軍区]]に鎮守府と[[軍港]]が設置されることになった。横須賀のほかに、[[1889 年]]には[[呉市|呉]]と[[佐世保市|佐世保]]に、 [[1901 年]]に[[舞鶴市|舞鶴]]に鎮守府([[舞鶴鎮守府]])が開庁した。しかし、当初予定されていた[[室蘭市|室蘭]]への設置は [[1903 年]]に取止めとなった。[[1905 年]]には[[旅順口鎮守府]]が設置された(1906 年([[1906年]]旅順鎮守府]]と改称、1914 年廃止)。また舞鶴は 1923 年には[[ワシントン軍縮条約]]のあおりで一時廃止(要港部への格下げ)されたが、[[1939 年]]に復活した。
各鎮守府は、所轄海軍区の防備、所属艦船の統率・補給・出動準備、[[兵員]]の[[徴募]]・訓練、[[施政]]の運営・監督にあたった。
鎮守府[[司令長官]](大・中将)は[[軍政]]に関しては[[海軍大臣]]の、作戦計画に関しては[[海軍軍令部長]]([[軍令部総長]])の指示をうけた。鎮守府は[[第二次大戦]]後の [[1945年]]11月に廃止された。
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[[Category:大日本帝国海軍|ちんしゆふ]]
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