「オルズベック・ナザロフ」の版間の差分

 
== 来歴 ==
[[1989年]]秋、[[勇利アルバチャコフ]](後の[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界フライ級王者)等と共に[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソ連]](当時)から来日。[[協栄ボクシングジム]]にスカウトされてきた6人のアマチュアエリートボクサーの1人であった(来日の橋渡し役は、[[スポーツ平和党]]初代党首で当時[[参議院議員]]に初当選して間もない[[アントニオ猪木]])。
 
[[1990年]][[2月1日に他のソ連出身選手と共に両国国技館でデビュー。デビュー当時のリングネームは]]、「'''グッシー・ナザロフ'''」のリングネームでプロデビュー髪型がリングネームの「グッシー」は[[世界ボクシング協会|WBA]]世界ライトフライ級王座を13度防衛した協栄ジム出身の元世界王者[[具志堅用高]]に風貌が似ている事が理由たことから名付けられた)。西沢誠(、破竹連勝で日本ライト級王座、東洋太平洋ライト級王座者)1回KOに降し、堂と獲得たる形でプロデビュー戦を飾る
 
[[1991年]][[4月]]、6戦目で日本ライト級王座獲得(2度防衛後返上)。
1993年10月21日にディンガン・トベラ({{ZAF}})の持つWBA世界ライト級王座に挑戦。これを12R判定勝ちで下して同級王者になる。
 
[[1992年]][[9月]]、[[東洋太平洋ボクシング連盟|OPBF]]ライト級王座獲得。世界挑戦準備のため[[1993年]][[9月]]に王座を返上するまで5度の防衛に成功。
日本での集客力の無さ、さらに[[ライト級]]という欧米では人気選手の集まりやすい階級にもかかわらず低いファイトマネーと試合枯れのため、協栄ジムとの話し合いの末日本を離れ[[フランス]]のプロモーターと契約、その後は旧ソ連に戻りキャリアを終える。
 
[[1993年]][[10月21日]]、世界初挑戦。敵地[[南アフリカ]]に渡り、WBA世界ライト級王者ディンガン・トベラに挑む。1度ダウンを喫するも、その後ダウンを奪い返す等、猛反撃を展開。12回判定勝ちを収め、無敗のまま世界王座奪取に成功した。トベラとは翌[[1994年]][[3月]]の初防衛戦でも再戦し、この時も12回判定勝ちを収めた。
 
[[1995年]][[5月]]の3度目の防衛戦からは3戦連続で日本国内で試合を行うが、海外出身の「輸入ボクサー」であるが故、集客力は低く、ファイトマネーも安かった。[[1996年]][[4月]]の5度目の防衛成功後は日本国内で試合を組めない状況となり、同年末を以って協栄ジムを離れ、[[フランス]]に拠点を移す。
 
[[1997年]][[5月]]、フランス移籍初戦。1年1ヵ月ぶりの試合であったが、長期間のブランクを感じさせない7回TKO勝ち。6度目の王座防衛に成功。その後、ノンタイトル戦を2度行い、いずれも勝利。
 
[[1998年]][[5月16日]]、7度目の防衛戦。ジャン・バチスト・メンディ(フランス)の挑戦を受け、12回判定負け。4年半あまり保持してきた世界王座を手放し、結局この試合を最後に現役を引退した。
 
== 戦績 ==
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