「細川氏綱」の版間の差分

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復権をめざして[[1543年]]、[[細川晴元]]を討つため[[和泉国|和泉]]で挙兵する。[[畠山氏]]や[[遊佐氏]]、[[筒井氏]]などの畿内の有力者や、将軍[[足利義晴]]の支持をえたものの、当初は晴元の強大な力の前に圧倒的に不利であったが、晴元の家臣・[[三好長慶]]が裏切って味方となったために形勢は一変([[江口の戦い]])し、[[1549年]]遂に晴元を[[近江国|近江]]へと追放することに成功した。
 
[[1552年]]、長慶とともに上洛し、[[管領]]に任じられたが、氏綱は長慶の傀儡でしかなく、実権は全く無かった。そして[[摂津山城|摂津]]の[[淀古城|淀城]]に長慶の監視付きで居城を与えられた氏綱は、1563年に失意のうちに死去した。その後、後任の管領が任じられる事は遂に無かった。
 
== 関連項目 ==