「ヴァーツラフ・ターリヒ」の版間の差分

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ターリヒが[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]](以下、チェコpoと略記)の指揮台に初めて登場したのは1908年の野外コンサートであった。1917年、1918年と相次いで指揮する機会を得、特に1918年10月30日の「[[ヨセフ・スク|スーク]]の夕べ」で大成功を収めた。この成功により、この年のうちにチェコpoの次席指揮者、翌1919年には同オーケストラの主席指揮者に就任した。ターリヒはチェコpoでの職務のかたわら、プラハ音楽院で教鞭を執り、1931年から1933年にはストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団の主席指揮者を兼務しておりプラハを一時留守にしている。さらに1935年からは[[プラハ国民劇場]]の音楽監督を務めるなど、多くの激務を抱える身となり、1941年にチェコpoでの地位を[[ラファエル・クーベリック]]に譲った。第二次大戦後はチェコ室内管弦楽団を創立し、またスロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団の主席指揮者を務めた。1961年、チェコのベロウンで逝去した。
 
チェコpoを現在あるような国際的なオーケストラにまで高めたのはターリヒの功績であるといわれる。それまで[[ヨーロッパ]]の古い街には必ずある地方オーケストラの一つにすぎなかったチェコpoは、彼の薫陶を受けてその実力を高め、著名な指揮者や独奏者が客演するようになり、聴衆の耳目を惹くようになっていった。ターリヒが指揮するチェコpoの演奏する[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]を聴いた[[エフゲニー・ムラヴィンスキー]]はそのすばらしさに感嘆し、その後ドヴォルザークを演奏しなかったという。ターリヒの演奏はスラヴ風の野趣を残しながらも、ニキシュ流の明朗で気品をもっていた。ドヴォルザークや[[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]の演奏の録音が残されており、耳にすることができる。
 
教育者としてもターリヒは優れた人材を多く輩出しており、主な弟子に[[カレル・アンチェル]]、[[ヴァーツラフ・ノイマン]]、[[チャールズ・マッケラス]]らがいる。