「バーン・ガニア」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
23行目:
万能スポーツ選手としての華々しい実績から、[[NWA (プロレス)|NWA]][[ミネアポリス]]地区のプロモーターにスカウトされ鳴り物入りで[[1949年]]に[[プロレス]]デビュー。[[NWA世界ジュニアヘビー級王座]]、初代USヘビー級王座を獲得するなど活躍し、[[ルー・テーズ]]などと並ぶメインイベンターとなる。しかし政治的な待遇面でNWA会長の[[サム・マソニック]]派と衝突し、[[1960年]][[5月]]にミネソタ地区のプロモーター達と共にNWAを離脱。[[ミネアポリス]]を本拠地とする[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]を創設した。
 
以降、[[AWA世界ヘビー級王座]]を通算10回獲得し長期間トップレスラーとして君臨。若き日の[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]、[[マサ斎藤]]、[[ニック・ボックウィンクル]]等の強豪選手をAWA所属選手として招請し、短期間でNWAの対抗勢力にまで成長させプロモーターとしても大活躍。現役レスラーであったことなどからAWA会長にはならなかったものの実権を掌握し、AWAの帝王と呼ばれるようになる。また、[[リック・フレアー]]をはじめ幾多の名レスラーをスカウト、育成したことでも有名である。
 
[[1981年]]1月18日には[[ジャイアント馬場]]3000試合連続出場突破記念試合で馬場の保持する[[PWF]]ヘビー級王座と自身の保持するAWA世界ヘビー級王座のダブル[[タイトルマッチ]]を行い(3本勝負で行われ1-1の[[引き分け|ドロー]]で両者王座防衛)、その年の[[プロレス大賞]]ベストバウトに選ばれている。同年5月、AWA王座を保持したまま引退。
 
しかし、アマレスの名選手だったガニアはレスリングの基礎がしっかりしたレスラーを重用する傾向が顕著で([[ヒール (プロレス)|悪役]]ですら[[マッドドッグ・バション]]や[[バロン・フォン・ラシク]]のように人並み以上に「レスリングの出来る」選手が重用された)、彼の引退後に台頭してきた[[ハルク・ホーガン]]や[[ロード・ウォリアーズ]]などの派手なパワーファイターには懐疑的で彼らの商品価値を見誤り、[[1983年]]以降のWWF(現[[WWE]])のプロモーション戦略に押され有力所属選手が次々と離脱。勢力の回復に尽力するが、AWAの人気は凋落し[[1991年]]に崩壊した。AWA崩壊後にガニアは[[破産|自己破産]]した。[[ミネソタ州]][[知事]]となった元プロレスラー[[ジェシー・ベンチュラ]]の相談役として表に出たこともあったが、現在はミネアポリス郊外でひっそりと余生を過ごしているといわれている。
 
[[2006年]]、[[WWE殿堂]]に迎えられ久々に公の場に姿を見せた。ガニアの場合はWWEの歴史上には「対立組織の総帥」としてしか登場しないが、WWWF設立以前の[[マディソン・スクウェア・ガーデン]]の主役ではあった。彼の受賞をきっかけとしてWWEの歴史には登場しない他のNWA、AWA系の人物たちも続々と殿堂入りを果たしている。