「東大寺大仏殿虹梁」の版間の差分

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2本の虹梁材は新川口に隣接する浜の市(隼人港)で筏に組まれ、[[鹿児島湾]]を6艘の船に引かれ3日間をかけて鹿児島津([[鹿児島港]])に到着した。鹿児島から畿内までの航路には波の荒い[[日向灘]]や[[玄界灘]]が控えており、筏のままでは強度が不足するため船に乗せる必要があった。しかしながら当時はこのような大木を船に乗せる技術がなく、商人たちは輸送を躊躇する状況であった。
 
このような中、[[志布志港|志布志]]の商人山下弥五郎が観音様のお告げを受けたとして、米を運ぶのと同じ運賃で畿内までの輸送を買って出ることになった。弥五郎は2本の大木を船に乗せるために船を沈める方法を用いた。6月11日に船底の栓を抜いて船を沈め、翌12日の満潮時に2本の虹梁材を船の上に配置した。干潮になるのを待って船底の栓を戻し、船の中から水をくみ出すことで虹梁材の積載に成功した。この方法は弥五郎の娘が夢で観音様から教えられたとされている。
 
2本の虹梁材と24名の乗組員を乗せた観音丸は6月20日に鹿児島津を発ち、翌21日、[[山川港]]に立ち寄った。南風を待って7月5日深夜に出港し、7月12日、兵庫津([[神戸港]])に到着した。虹梁材を船から降ろす際にも船を沈める方法が用いられている。兵庫津から4艘の船に引かれて7月16日に大阪の[[伝法川 (大阪府)|伝法川]]河口に到着した。大阪からは船で虹梁材を挟み、[[淀川]]と[[木津川 (京都府)|木津川]]をさかのぼった。延べ4625人が川岸から綱で船を引く作業に参加し、8月10日、木津([[木津川市]])に到着した。
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==参考文献==
*えびの市郷土史編さん委員会編 『えびの市史 上巻』 宮崎県えびの市、1994年
*志布志町編・発行 『志布志町誌 上巻』 1972年
*新原不可止 「東大寺大仏殿虹梁搬送物語」 えびの市史談会編・発行 『えびの 第38号』 2004年
*東大寺編 『東大寺』 学生社、1999年、ISBN 4-311-40807-2