「中西悟堂」の版間の差分

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=== 野鳥の会とともに ===
それまで日本人の野鳥とのかかわりは飼い鳥として籠の中の鳥の鳴き声や姿を楽しむか、狩猟や食肉の対象としているものであった。悟堂はそのような習慣をやめて「野の鳥は野に」と自然の中で鳥を楽しむことを提唱した。その考えには少年時代からの仏教教育に基づいた万物に命が宿るといった自然観の影響が見られる。日本には「花鳥風月」の言葉どおり鳥をテーマにした文芸、絵画の歴史は長い。悟堂は短歌や詩などの文芸あるいは絵といった方法で鳥の愛護、保護を一般大衆に訴える雑誌を構想した。1934年、雑誌名を「野鳥」と命名し編集責任者になったのが悟堂である。そして雑誌発刊と共に、鳥類愛護の思想を普及と鳥類の研究を目的として[[日本野鳥の会]]を創立した。6月には、のちに探鳥会と呼ぶようになる初めての[[野鳥観察]]の会を[[富士山]]裾野の須走で開催した。当初の会員は悟堂の知己である文学者、鳥類学者などの文化人や貴族などで大衆的な広がとりにはならなかったが、精力的な活動のおかげで各地に支部も設立されしだいに会員も増えた。戦前の[[1944年]]には会員数はおよそ1800名となった。紙の配給が止まったのでこの年9月を最後に機関誌「野鳥」の発行も途絶えた。
 
戦後、会員が雲散霧消し休止状態であった活動を再開し、[[1947年]]に「野鳥」を復刊する。カスミ網の禁止の法制化、サンクチュアリーの設置など自然保護、野鳥保護活動に精力的に従事する。