「エルジュビェタ・オストログスカ」の版間の差分

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|'''[[シュラフタ|家系]]''' || [[オストログスキ家]]
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|'''[[紋章]]''' ||[[画像ファイル:Herb Ostrogski.jpg|100px]]
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|'''両親''' || [[イリヤ・オストログスキ]]<br>ベアタ・コシュツィエレツカ
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== 生涯 ==
[[Imageファイル:Szamotuly(js)1.jpg|200px|thumb|left|[[シャモトゥヴィ]]城中にある塔「闇の姫の牢獄」]]
[[Imageファイル:Kazanie Skargi.jpg|left|200px|thumb|「ピョトル・スカルガの説教」[[ヤン・マテイコ]]画]]
1553年、エルジュビェタが13歳になると、叔父[[コンスタンティ・ヴァシーリ・オストログスキ]]はエルジュビェタの実母ベアタの反対を押し切って、彼女を[[カーニフ]]、[[チェルカスィ]]、[[ジトームィル]]の[[スタロスタ|王領地代官]]を務めていたディミトリ・サングシュコに嫁がせた。しかし、まもなくディミトリは国王[[ジグムント2世|ジグムント・アウグスト]]に対して無礼を働いたために[[名誉剥奪]]処分を受け、国外逃亡の必要に迫られたが、[[ヤロミェル]]で[[マルツィン・ズボロフスキ]]に捕まって殺された。