「一言坂の戦い」の版間の差分

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{{See|二俣城の戦い}}
家康を破った信玄は、10月16日に二俣城を包囲した。二俣城は遠江国の諸城の中でも特に重要な拠点であった。武田軍が補給路を確保するためにも、徳川軍の連絡網を断ち切るためにも、この城は落としておく必要があり、った。二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵上に築かれた城である。り、この川が文字通り天然の堀を成する堅城である。城将は[[中根正照]]、副将は[[青木貞治]]であり、城兵の数は1,200人ほどであった。一方の武田軍は馬場信春軍と信玄軍が合流して、2万7000人の大軍であり、力攻めも不可能ではなかった。
 
正照は家康、そしてその同盟者である織田信長の後詰(援軍)を期待して、信玄の降伏勧告を拒否する。このため10月18日から武田軍の攻撃が開始されるも二俣城の攻め口は、北東の大手口しかなく、その大手口は急な坂道になっており、攻め上ろうとする武田軍は次々と矢弾の餌食となり攻めあぐんだ。
そこで、信玄は力攻めでは無理と判断し、水の手を絶つ方法を考えた。水の手は絶たれた二俣城には井戸が無く、水の手を絶たれた徳川軍は、奮戦虚しく武田軍の進撃を阻めず、12月19日に正照は城兵の助命を条件にして開城・降伏・開、浜松城に落ちて込まった。こにより、遠江国の大半が武田領となる。
 
{{See|三方ヶ原の戦い}}