「ルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデ」の版間の差分

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== 来歴 ==
[[ブルボン家]]の支流[[コンデ公|ブルボン=コンデ家]]のコンデ公[[ルイ6世アンリ (コンデ公)|ルイ6世アンリ]]の世継ぎとして生まれる。[[バスティーユ襲撃]]後、祖母の実家である[[バーデン辺境伯]]領に[[亡命]]し、[[フランス革命戦争]]にも参加した。しかし[[ナポレオン・ボナパルト]]に対する[[陰謀]]を企てたかどでフランス軍に捕らえられ、1804年3月20日にパリ郊外の[[ヴァンセンヌ城]]まで移送された後[[軍法会議]]メンバーの7人の[[大佐]]の前に連行され、1時間後に[[処刑]]された。
 
ルイ・アントワーヌの処刑は、ナポレオンに対する嫌疑ではなく、ナポレオンの私恨及び[[シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]による[[陰謀]]であった。ルイ・アントワーヌは[[王党派]]による陰謀には荷担していなかったが、王党派によるナポレオン暗殺未遂の黒幕として上げられたのである。この処刑は、タレーランによる王族殺しの罪をナポレオンに着せるものであったが、このことは欧州諸国の敵意を呼び覚まし、[[ナポレオン戦争]]の激化へと繋がる事となった。