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'''ドランド・ピエトリ'''
== 人物 ==
=== ロンドンオリンピック
ピエトリは、[[イタリア]]の[[エミリア=ロマーニャ州]]出身で、若い頃は菓子屋の店員として働いていた。1904年に当時[[イタリア]]でもっとも有名なランナーであったペリクーレ・パグリアーニが、ピエトリの地元のレースに参加したときに、ピエトリはそのイベントに魅せられ参加し、パグリアーニよりも先着してしまった。数日後、ピエトリは長距離界にデビューし、[[ボローニャ]]で行われた3000mで2位に入る活躍をしている。
翌年、彼は[[パリ]]で行われた
1907年にはイタリア選手権に勝利する。彼は、5000mからマラソンまで、押しも押されもせぬ[[イタリア]]のトップランナーと認められた。
=== ロンドンオリンピック
ピエトリは1908年の[[ロンドンオリンピック (1908年)|ロンドンオリンピック]]に向けて一生懸命に練習をした。地元で行われたレースでは、
そして、マラソンは7月24日に、イギリスの天候としては異常なほどの暑さの
ピエトリは、まずはスローペースで入り、レースの中間点を過ぎると次第に力強く躍動してゆき、
その後、ゴールまで約
[[
ピエトリは、さらに4回も倒れ、そのたびごとに係員に抱え上げられた。結局、彼はへとへとに疲れ果ててしまいながらも、何とか1着でゴールすることができた。タイムは2時間54分46秒であった。ラスト350mに10分もかかっていた。2着は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のジョニー・ヘイズであった。アメリカチームはすぐに、ピエトリが係員に助けられながらゴールしたことについての異議を申し出た。異議は認められ、ピエトリは失格となり、最終成績からも抹消されてしまう。これが有名な「ドランドの悲劇」である。
=== 世界的有名人 ===
ピエトリの頑張りはスタジアムにいた観客を感動させた。メダルを失った代償として、[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレキサンドラ王妃]]は彼に銀のカップを授与することとし、作家の[[アーサー・コナン・ドイル]]は授与式を提案した。一説によれば、ドイルはゴール地点でメガホンをもって応援していたという。
ピエトリは世界的な有名人となった。作曲家の[[アービング・バーリン]]からは「ドランド」という歌をプレゼントされ、また、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で行われるエキシビションレースに参加するよう求められた。1908年11月に[[ニューヨーク]]の[[マ
ピエトリは、1909年5月に[[イタリア]]に戻り、プロのランナーとして活動することとなった。そしてさらに2年間外国で活動することとなった。彼の最後のマラソンは、1910年5月に[[ブエノスアイレス]]で行われたレースで、ここで2時間38分48秒2の自己ベストを達成している。
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彼は、これを元手に兄弟でホテルの経営に乗り出した。しかし、経営者としては彼はランナーのようには成功できず、ホテルはつぶれてしまった。
その後ピエトリは[[サンレーモ|サンレモ]]に引越し、自動車ワークショップを経営した。1942年、心臓発作により死去。{{没年齢|1885|10|16|1942|2|7}}。
[[Category:マラソン選手]]
▲[[category:イタリアの陸上競技選手|ひえとり とらんと]]
[[Category:1885年生]]
[[Category:1942年没]]
[[de:Dorando Pietri]]
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