「張皇后 (漢恵帝)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
新しいページ: ''''張皇后'''(ちょう こうごう、?-紀元前163年)は、前漢の人。漢の恵帝皇后。父は趙王だった[[...'
 
編集の要約なし
1行目:
'''張皇后'''(ちょう こうごう、? - [[紀元前163年]])は、[[前漢]]の人。[[前]]の[[恵帝 (漢)|恵帝]]の[[皇后]]。父は趙王だった[[張敖]]。母は[[魯元公主]]([[劉邦]]と[[呂雉|呂后]]の娘で恵帝の同母姉)。
 
== 略歴 ==
魯元公主は張敖に降嫁して娘と男子張偃を産んだ。高祖劉邦が死して皇太子の恵帝が即位すると、[[皇太后]]の呂后は親戚自らの血縁者同士のつながりを固めようとし、魯元公主の娘恵帝の姪)を皇后に立てた(恵帝4年([[紀元前191年]])。
 
呂后はこの張皇后に恵帝の子を産ませようと手を尽くしたが子は産まれず、そこで妊娠したと偽らせ、後宮の美人(女官の称号)の産んだ子を皇后の子として皇太子に立て、その子の実母は殺した。
 
恵帝7年([[紀元前188年]])に恵帝が死すると、その皇太子が即位した([[少帝恭|少帝]])が即位したが、彼はその後自分が張皇后の子ではなく、実母は殺されたことを知り、呂后を恨むようになった。そこで呂后は呂后4年([[紀元前184年]])に彼を廃位して恒山王弘を皇帝に立てた([[少帝弘]])。
 
呂后8年([[紀元前180年]])、呂后が死亡すると[[陳平]]、[[周勃]]ら大臣が呂氏を滅ぼし、少帝弘を廃して高祖の子である代王恒を皇帝に迎えた。これが[[文帝 (漢)|文帝]]である。呂氏や少帝弘らは殺されたが、張皇后は廃されて北宮に幽閉されるに留まり、文帝後元年([[紀元前163年]])に死亡した。恵帝陵である安陵に葬られたが、墳墓は作られなかった。
13行目:
*[[班固]]著『[[漢書]]』巻2恵帝紀、巻3高后紀、巻97上孝恵張皇后伝
 
{{DEFAULTSORT:ちよこうこう}}
[[Category:漢の皇后]]
[[Category:紀元前163年没]]
 
[[en:Empress Zhang Yan]]
[[zh:張嫣 (漢朝)]]
[[zh-classical:漢孝惠皇后]]