「ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ」の版間の差分

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==略歴==
[[ハレ]]に生まれる。大学で法学博士号を取得後、プロイセン州内務次官ハンス・フォン・ビスマルクの助手として働いた。ビスマルクもシュラーブレンドルフも共に、早くから[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]に対する反感を持っていた。シュラーブレンドルフは[[弁護士]]資格を持ち、陸軍予備役中尉だった。
シュラーブレンドルフは弁護士資格を持ち、陸軍予備中尉だった。[[東部戦線]]でトレスコウ少将の副官として、反ヒトラー派の[[ルートヴィヒ・ベック]]、[[カール・ゲルデラー]]、[[ハンス・オシュター]] ([[:de:Hans Oster|Hans Oster]]) 、[[フリードリヒ・オルブリヒト]]の間の連絡役を務めた。
 
シュラーブレンドルフは弁護士資格を持ち、陸軍予備[[第二次世界大戦]]尉だった。の1942年以降、[[東部戦線]]でトレスコウ少将の副官として、反ヒトラー派の[[ルートヴィヒ・ベック]]、[[カール・ゲルデラー]]、[[ハンス・オシュター]] ([[:de:Hans Oster|Hans Oster]]) 、[[フリードリヒ・オルブリヒト]]の間の連絡役を務めた。
 
1943年3月13日、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]がスモレンスク前線視察を行った際、トレスコウはヒトラーの搭乗機に爆弾を仕掛ける計画を行った。実行役がシュラーブレンドルフで、トレスコウから預かった爆弾の仕掛けられたリキュール瓶を搭乗機に持ち込んだ。しかしながらロシアの寒気と雷管に欠陥があったため爆弾は動作せず、計画は失敗に終わった。爆弾は翌日彼によって密かに回収され計画が明るみに出ることはなかった。
 
1944年7月20日に[[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]大佐が実行犯となった[[ヒトラー暗殺計画]]が失敗に終わり、軍や政府内の反ヒトラー派の検挙が始まった。シュラーブレンドルフも同年8月17日に逮捕され、ベルリンの[[ゲシュタポ]]の監獄に拘束され、訊問と拷問を受けたが、決して口を割らなかった。1945年2月3日にシュラーブレンドルフは[[人民法廷]]で裁判の開始を待っていたが、法廷はアメリカ軍機の爆弾の直撃を受け裁判官[[ローラント・フライスラー]]が死亡。フライスラーはシュラーブレンドルフのファイルを抱えたままの姿で発見された。「死の裁判官」フライスラーの急死の結果、シュラーブレンドルフは死刑を免れた。
 
1945年の2月から5月までシュラーブレンドルフはザクセンハウゼン、フロッセンブルク、ダッハウ、インスブルックといった強制収容所に収容され、監視役の親衛隊員が逃亡してドイツが降伏した後の5月に[[アメリカ軍]]によって解放された。
 
19451946、軍部内2月から5月までシュ反ヒトラーブレンドルフはザクセンハウゼン、フロッセンブルク、ダッハウ、インスブルック抵抗運動に関する最初の書物いった強制収容所に収容され、敗戦後5月半ばにアメリカ軍によって解放されたなる手記を刊行戦後、彼は1967年から1975年まで[[ドイツ連邦共和国]]の[[連邦憲法裁判所]]の裁判官を務める。[[ヴィーズバーデン]]で死去した。
 
==関連項目==