「弘道館戦争」の版間の差分

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'''弘道館戦争'''(こうどうかんせんそう)とは、[[慶応明治]]4[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]([[1868年]])10[[11114]])に[[水戸城]]三の丸内にあった水戸藩[[藩校]][[弘道館]]において行われた、水戸藩内の保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の戦い。弘道館の戦い。
 
[[天狗党の乱]]鎮圧後、[[水戸藩]]では[[市川三左衛門]]らを中心とする[[諸生党]]が実権を握り佐幕派となっていたが、[[戊辰戦争]]が勃発すると[[朝廷]]から諸生党に対する追討命令出された。これにより本圀寺党、天狗党の残党など改革派が再び水戸藩の実権を掌握することとなった。賊軍となった諸生党は水戸藩を脱して会津へ向かい、[[会津藩]]や[[桑名藩]]の隊と合流して[[会津戦争]]・[[北越戦争]]など東北方面での新政府軍との戦闘に参加。しかし9月22日、会津藩が降伏すると市川らは敗軍と合流して会津藩領を脱し、会津戦争参戦のため防備が手薄になっていると思われた水戸城を目指した。一行の人数は500人とも1,000人とも言われる。片府田・佐良土などで[[黒羽藩]]兵と交戦するなどしながら行軍し、9月29日に水戸城下に到着した。
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改革派は周辺の新政府軍とともに敗走する諸生党を追撃、諸生党は多くの脱落者を出しながら交戦しつつ敗走を続け、10月6日、下総八日市場の戦い([[松山戦争]])で壊滅した。
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