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『国史大辞典』(執筆:益田宗)『平安時代史事典』(執筆:平田俊春)の同名記事を参考に加筆
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'''百錬抄'''(ひゃくれんしょう)は、[[公家]]の日記などの諸記録を抜粋・編集した[[歴史書]]。[[鎌倉時代]]後期の[[13世紀]]末に成立したとされる。編著者は未詳。'''百練抄'''とも書く。書名は[[白楽天]]の「百練鏡」に由来するとされ、元は「練」の字が用いられていたが、[[江戸時代]]以後に「錬」の字が用いられるようになった
 
17巻よりなるが完本ではなく、巻1より巻3までが欠けている。[[968年]]([[安和]]元年)より[[1259年]]([[正元 (日本)|正元]]元年)12月までを[[天皇紀]]の形式をとった[[漢文]]の[[編年体]]によって記されている。[[京都]]中心の記録で、武家方の『[[吾妻鏡]]』とは対照的である。いま伝わるものとしては、[[塙保己一]]が紅葉山文庫本・学問所古本などをもって校訂を加え[[1803年]]([[享和]]2年)に出版した刊本をはじめ、[[写本]]としては[[1304年]]([[嘉元]]2年)、[[金沢貞顕]]が[[吉田定房]]の本をもって校訂した[[金沢文庫]]本系のものがある。
 
著者は不明であるが、[[勧修寺流]][[吉田経房]]の『[[吉記]]』をはじめ同流の出身者の[[日記]]が多く引用されていることから、勧修寺流関係者説が有力とされている。[[後深草天皇]]が退位する1259年で完結し、かつ本文中には「新院」として登場することから原本が完成した時点では次の[[亀山天皇]]は未だ在位していたと考えられている。その後、修正が加えられて遅くても後述の[[金沢文庫]]本が作成される前には完成していたと推定されている。
 
巻3までの内容は不明であるが、巻4の[[冷泉天皇]]から巻7途中の[[近衛天皇]]までは[[藤原信西]]『[[本朝世紀]]』の抄出であるが、同書自体の散逸が多いため貴重である。その後は、同じく巻7途中の[[二条天皇]]の部分までは現存しない[[平親範]]の日記が用いられていたとされ、以後は吉田経房及びその子孫([[吉田資経|資経]]・[[吉田経俊|経俊]]ら)の日記から引用されたとみられている。巻8の[[高倉天皇]]から巻15[[後嵯峨天皇]]まで([[仲恭天皇|九条廃帝]]を除く)は1代1巻で構成され、最後の2巻を後深草天皇にあてる。
 
[[京都]]中心の記録で、武家方の『[[吾妻鏡]]』とは対照的である。いま伝わるものとしては、[[塙保己一]]が紅葉山文庫本・学問所古本などをもって校訂を加え[[1803年]]([[享和]]2年)に出版した刊本をはじめ、[[写本]]としては[[1304年]]([[嘉元]]2年)、[[金沢貞顕]]が[[吉田定房]]の本をもって校訂した金沢文庫本系のものがある。
 
== 関連項目 ==