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飛ぶ鳥 (会話 | 投稿記録)
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[[京都府]][[京都市]]出身。京都市立龍池小学校、京都市立城巽中学校、[[四天王寺高校]]、[[同志社大学]]商学部卒業、[[同志社大学]][[大学院]]修了。
 
[[井村雅代]]コーチの下で指導を受け、日本代表チームで活躍する。[[1989年]]W杯パリ大会チーム[[銅メダル]]、[[1991年]]世界選手権パース大会でチーム銅メダル、W杯ボン大会ソロ銅メダル・デュエット[[銀メダル]]を獲得する
 
期待された[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]ではソロで3位入賞する。デュエットでは[[高山亜樹]]とコンビを組み3位入賞、2つの五輪銅メダル獲得に輝いた。
 
[[1993年]]W杯ローザンヌ大会ではチームで銅メダルを獲得する。しかしロシアの台頭で、ソロとデュエットのメダルを逃してしまい、失意のどん底に落ちるが一念発起する
 
[[1994年]]世界選手権ローマ大会のソロに於いて、それまでのシンクロの常識を覆す、女の情念や怒りを表現した「笑わないシンクロ」、「夜叉の舞」をフリールーティンにて披露する。世界選手権ソロ史上初の芸術点オール10.0点満点を記録し、銀メダルを獲得する。現在でも日本シンクロ界で語り継がれる伝説の演技となった。そしてデュエットでも銀メダル・チームで銅メダルを獲得する。同年の[[1994年アジア競技大会|広島アジア大会]]ではソロ・デュエットで共に[[金メダル]]を獲得するなど、その後の日本シンクロ躍進の原動力となった。
 
[[1996年]]の[[アトランタオリンピック]]でも活躍が期待されていた矢先、その前年の[[1995年]]1月に腰痛悪化の理由等により、惜しまれつつ現役引退を表明する。その後はスポーツキャスター、アメリカ・ラスベガスの[[シルク・ドゥ・ソレイユ]]のショー「O(オー)」で活躍する
 
[[2002年]]、同志社大学時代から付き合っていた陸上競技選手(短距離)の[[朝原宣治]]と結婚し、[[2003年]]4月に第一子となる長女を出産、[[2006年]]7月に第二子となる長男を出産した。交際のきっかけは体育会系の学生が皆ジーンズ姿で授業を受けているのに対し、1人だけスーツ姿で授業を受けていた朝原に好感を持ち始めてからだという。
 
[[2008年]]の[[北京オリンピック]]では、夫の朝原宣治が[[400メートルリレー走|400mリレー走]]で日本男子代表の[[アンカー]]を務め、念願の銅メダルを獲得する。妻の史子は当時5歳の長女と一緒に、現地の陸上競技場スタンドで生観戦していたが、夫婦揃って五輪の銅メダルを獲得出来た喜びに、感極まって嬉し涙を流し続けていた。
 
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