「ペトロザヴォーツク」の版間の差分

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[[大北方戦争]]のさなかの[[1703年]][[9月11日]]に建設された。バルト艦隊のための大砲や錨を作る鋳鉄工場の建設を求めていた[[ピョートル1世|ピョートル大帝]]の意向で、メンシコフ公がこの地に工場と集落を作った。工場は当初はシュイスキー・ザボド(シューヤ川沿いの工場)という名であったが、10年ほど後にピョートル大帝にちなみペトロフスキー・ザボドとなった。これが現在の地名の由来である。
 
[[1717年]]には、工場周囲の集落であるペトロフスカヤ・スロボダの町は人口3,500人とカレリア最大の町となり、木造の要塞、屋根付き市場、ツァーリとメンシコフ公のための小さな宮殿もあった。この街のシンボルであった木造の聖堂は18世紀後半に立て直され、ピョートル大帝時代の[[イコノスタシス]]を創建当時のまま保存していたが、[[ロシア革命]]後の[[1924年]]に火災で焼失した。
 
ピョートル大帝の死後、工場も町も衰退したが、[[エカチェリーナ2世]]により[[1773年]]に新たな鋳鉄工場が建設され、[[オスマン帝国]]との戦争に大砲を供給し、18世紀末にはさらに拡張された。
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[[1777年]]、エカチェリーナ2世の行政改革により、ペトロフスカヤ・スロボダは都市として登録され、ペトロザヴォーツク(ピョートル大帝の工場の町)と改名された。[[新古典主義建築]]による聖堂や都市計画もこの頃に整備された。[[1784年]]には伝統的にカレリアの中心だった[[オロネツ]](オローネツ)に代わりオロネツ県の行政の中心となった。
 
[[継続戦争]]中の[[1941年]]から[[1944年]]まで[[フィンランド]]領であった。その期間、従来のフィンランド語名のペトロスコイに代え、オネガ湖のフィンランド語名"アーニネン"(Ääninen)にちなみ、「アーニネンの城」という意の、"アーニスリンナ"(Äänislinna)とづけられていた。
 
== 経済 ==