「シビーユ (エルサレム女王)」の版間の差分

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ギーは強硬派の[[ルノー・ド・シャティヨン]]と組み、1187年7月4日の[[ハッティンの戦い]]で大敗し、自らは捕虜となっている。
 
エルサレムに残っていたシビーユはバリアン・ド・イベリンに防衛を委ね、開城が決まると娘達と[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]に移った。1188年にギーが解放されると、共に[[ティール]]に向かったが[[コンラート1世 (モンフェラート侯)|モンフェラート侯コンラッド]]に入城を拒否されると、王国の残党を集めて[[アッコン]]の攻略を開始した。アッコン包囲中にシビーユと2人の娘は病気で亡くなっている。シビーユの死により貴族派はイザベルを女王に推戴したが、ギーは1192年まで王位を主張した。
 
== 備考 ==
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