「ゼノン (エレア派)」の版間の差分
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エレアの'''ゼノン'''([[ギリシア語]] Ζήνων Έλεάτης、[[ラテン語]]・[[英語]]・[[フランス語]] Zeno、[[ドイツ語]] Zenon、 [[紀元前490年]]頃 - [[紀元前430年]]頃<ref>{{Cite book|和書|author=ディオゲネス・ラエルティオス|translator=加来彰俊|year=1994|title=ギリシア哲学者列伝(下)|publisher=岩波書店|isbn=4-00-336633-6|pages=118}}によれば、第79回[[古代オリンピック|オリンピック]]大会期([[紀元前464年]]-[[紀元前461年]])のときに男盛りであった。</ref>)は、[[古代ギリシア]]の[[自然哲学]]者で、南[[イタリア]]の小都市エレア
== 生涯 ==
テレウタゴラスの子として生まれたが、養子縁組によって哲学者[[パルメニデス]]の子となった。それより生涯、パルメニデスの弟子であり、同時に愛人でもあったという。<ref name="diogenes">{{Cite book|和書|author=ディオゲネス・ラエルティオス|translator=加来彰俊|year=1994|title=ギリシア哲学者列伝(下)|publisher=岩波書店|isbn=4-00-336633-6|pages=114-118}}</ref>
エレアを愛していたため、学問の中心である[[アテナイ]]には移住せず、生涯を祖国で過ごした。<ref name="diogenes" />
[[政治活動家]]として命を落とした。そのころエレアを支配していた[[僭主]]ネアルコス(一説によればディオメドン)を打倒しようとしてかえって捕まえられ、刑死させられたという。一説によれば、同志や武器の輸送について尋問されたときに、僭主に猜疑心を起こそうと謀って、同志として僭主の友人の名を挙げた。その後、さらに打ち明け話があるふりをして僭主に近づき、その耳(あるいは鼻)に噛みついて、刺し殺されるまで離さなかった。また別の一説によれば、他に共犯者がいるかとの僭主の問いに対して「国家に仇をなすあなたこそ、反乱の首謀者である」と言い放ち、自分の舌を噛み切って相手に吐きかけた。そこで市民たちは奮い立って、僭主に石を投げつけて殺してしまった。またある別の一説によれば、ゼノンは石臼の中に投げ込まれて打ち殺された。<ref name="diogenes" />
[[プラトン]]の対話篇『パルメニデス』に、師パルメニデスや[[ソクラテス]]と一緒に登場させられた。[[ソクラテス]]や[[ペリクレス]]もゼノンの講義を聴いたことがあるとされている。そのほか、プラトンは、[[ギリシア神話]]の知将[[パラメーデース]]になぞえらえて、彼を「エレアのパラメーデース」として言及した<ref name="diogenes" />。また、[[アリストテレス]]によって「弁証法、問答法 (dialektike)」の創始者と呼ばれた<ref name="diogenes" />。
== 学説 ==
[[アリストテレス]]によれば、質疑応答により知識を探求する方法(弁証法)は、このゼノンによって初めて発見(発明)された。<ref name="diogenes" />
質疑応答により知識を探求する方法は、このゼノンによって初めて組織的に実践された。彼の論法は、もし存在が多であるならば、それは有限であると共に無限であるというような矛盾した結論を、相手方の主張を前提とすることから導き出して、これを反駁するところに特色がある。これらの[[論証]]は、パルメニデスの唯一不動の存在の考えを弁護する立場からなされている。この一と多の関係についての議論のなかから、有名な[[ゼノンのパラドックス]]が提示された。運動不可能を論じた〈アキレウスと亀〉〈飛ぶ矢は動かず〉等の論証は有名だが、特に前者はパルメニデスのものであるとも言われる。「実在するものが世界のすべてであり、変化も運動も存在しない」。これこそゼノンがパルメニデスから継承した命題であり、[[レウキッポス]]に影響を与えた。▼
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== 参考文献 ==
*[[ ディオゲネス・ラエルティオス]] 『ギリシア[[哲学者列伝]](下)』[[ 岩波文庫]]([[岩波書店]]) ISBN
== 注釈 ==
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== 外部リンク ==
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