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|生 = [[1952年]][[2月27日]]
|死 = [[1972年]][[4月28日]]
|父 = [[テネラニ|Tenerani]]
|母 = ロマネラRomanella
|母父 = エルグレコEl Greco
|産 = [[フェデリコ・テシオ]]
|国 = {{UK}}
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== 生い立ち ==
リボーは1952年、母のロマネラが種牡馬[[テネラニ]]と交配するために滞在していたイギリスのナショナルスタッドで生まれた。生産者両馬はリボーの両親る[[フェデリコ・テシオ]]はり、ともにイタリアの天才馬産家で、年間十数頭の小規模な馬産活動ながらリボー以前にも[[ネアルフェデリ]](Nearco)、[[ドナッロ (競走馬)|ドナテッロ]](Donatello II)等を生産し「ドルメロの魔術師」と呼ばれていた。母ロマネラ(イタリア2歳チャンピン)、父[[テネラニ]]([[デルビーイタリアーノ]]優勝馬)共に彼の生産馬であった。テシオは[[1951年]]にテネラニをロマネラに交配した後イギリスに売却したが、翌1952年の春、テシオは念のためもう一度ロマネラにテネラニを交配すること考え、ロマネラをイギリスに送った。その時に生まれた小柄な鹿毛の牡馬という経緯リボーでる。り、このため血統、関係者共にイタリア色が濃いにもかかわらず、生産国は[[イギリス]]となっている(生産地は[[サフォーク|サフォーク州]][[ニューマーケット]])。テシオは種牡馬を自らの手元に置かない主義であったため、このようなケースは他のテシオの生産馬には多いも見られる
 
生後すぐにイタリアに渡ったリボーだったが、子馬のころは大変小柄で、牧場でのあだ名はイタリア語で「ちびっこ」の意を指す'''イル・ピッコロ'''(Il Piccolo)というものであった。テシオも「なぜだか分からないが小さいながらもその資質と優れた体に素質を感じさせる凡馬のものではない」と素質を認める一方、小柄だったため[[クラシック (競馬)|クラシック]]登録をしなかったとされる。また、若い頃は人懐っこく物を隠すなど悪戯好きな側面も見せていたという。テシオはこの仔馬にフランスの画家「テオデゥル・オーギュスタン・リボー」に因み、リボーと名付けた。ちなみにテシオはリボーについて「将来ひとかどの馬になるだろう」と予言していたが、リボーがデビューする2ヶ月前に死去した。そのため、自身の最高傑作と評される競走馬のレースを見る事はなかった。
 
デビューに際してはテシオ厩舎のベテラン厩務員の1人マリオ・マルチェシが担当に決まった。彼が後年リボーを選んだ理由として語るついて、チビではあったが賢そうな顔立ちと、きびきびとした動作が気に入った。なにより根性がありそうだった」とのこ語った。やがてマルシェチリボーの間には語り草になるほどの深い絆が生まれた
 
== 現役時代 ==
=== 2歳時 ===
前述のようにデビューの2か月前にテシオが死去したため、テシオの盟友であったインチーサ・デッラ・ロケッタ侯爵が馬主となった。1954年7月に競走馬としてデビュー。序盤からスピードを全開にする走法で2連勝を飾った。3戦目のグランクリテリウムでは騎手のカミッチがそれまでと同様のレースをしてはスタミナがもたないのではないかと懸念し、前半スピードを抑える競馬を試みたが、自身の思い通りに走れないリボーを苛立たせることになり、その影響から生涯最小の[[着差 (競馬)|着差]]であるアタマ差での勝利を経験している。
テシオはリボーがデビューする僅か2ヶ月前に亡くなり、自身の最高傑作のレースを見る事はなかった。そのためテシオの盟友インチーサ・デッラ・ロケッタ侯爵が馬主となりデビューした。
 
2歳時は、イタリアのグランクリテリウムを含む3戦全勝でイタリアの2歳チャンピオンとなった。レースぶりはスタートから先行集団につけ、直線に入ってから後続を突き放すというスタイルであり、イタリアのグランクリテリウムで[[騎手]]が抑える競馬を試したところリボーはやる気を無くしアタマ差勝ちと生涯唯一の苦戦を経験している。
 
=== 3歳時 ===
クラシック登録がないリボー陣営は目標を故テシオの悲願だったフランスの[[凱旋門賞]]に定め、スレップレースのベサナ賞では後のイタリアの[[セントレジャーステークス]]優勝馬デレイン(Derain)に10馬身差をつけて完勝しフランスに遠征した。凱旋門賞では2番手を追走。最終コーナーで先頭にたつとリボーはそのまま後続を引き離し、ゴールではボウプリンス(Beau Prince)に3馬身差をつけて余裕の勝利を決めた。しかもこの僅か2週間後にイタリアの大レース[[ジョッキークラブ大賞 (イタリア)|ジョッキークラブ大賞]]で前年の勝ち馬ノルマンを相手に15馬身差で勝利している。
 
=== 4歳時 ===
4歳になってもリボーは圧勝を重ねた。初戦のグィリオヴェニノ賞を4馬身、2戦目のヴィチュオーネ賞を12馬身、3戦目のガルバニャーテ賞を8馬身、イタリア最大のレース[[ミラノ大賞典]]を8馬身と圧勝するが、イギリスでリボーの評価が低かった為、リボー陣営はイギリス遠征を決断し[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]へ出走、これを当時のレース最高着馬身差の5馬身の快勝をするとイギリスでの評価を覆した。この後、2度目の凱旋門賞を迎える。各国のクラシックホース7頭(他にワシントンDCインターナショナル勝ち馬マスターボーイング、翌年の凱旋門賞馬オロソ等もいた)、初めてアメリカからの遠征馬([[ワシントンDCインターナショナル]]勝ち馬フィッシャーマン、[[ベルモントステークス]]2着馬キャリアボーイの2頭)を迎えた高レベルな凱旋門賞となったが、デビュー以来の15連勝を重ねたリボーは1.6倍の圧倒的1番人気に押されていた。レースは前年の再現で、3番手を追走し、直線で先頭に立つと一度もムチが打たれることなく<ref>騎手のカミッチによると、これは「リボーは戦ってきた相手が弱い」という批判に対抗するためのパフォーマンスであった。</ref>独走態勢に入り、6馬身差で圧勝した(史上最大着差、しかも写真等から実際には8~10馬身あったといわれている)。リボー16戦全勝キャリアレースぶり20世紀欧州の連勝記録で、合計着差は100馬身に迫るものだっ「発射台から打ち出されたミサイル」と形容された。
 
リボーは20世紀欧州における最多連勝記録16を残し引退した。16のレースで記録した2着ころ合計着差ひょろ100馬身に迫るものだとし小柄な。子体での頃「イル・ピッコロ」(ちびっこ)と呼ばれた程だったが、成長すると逞しい馬小柄なに成長した。格は引退時の計測は体高162.6cm、胸囲188cm、官囲20.3cmにま成長し、賢そうな顔と、力強い後ろ脚が特に目立つ徴的な競走であになていた。
 
=== 戦績 ===
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== 身体・精神面の特徴 ==
リボーは子馬のころはひょろっとした小柄な馬体で「イル・ピッコロ」(ちびっこ)と呼ばれた程だったが、成長すると逞しい馬体に成長した。引退時の計測では体高162.6cm、胸囲188cm、官囲20.3cmで、賢そうな顔と、力強い後ろ脚が特に目立つ馬であった。
 
性格は概ね気難しい馬といったものだが、仔馬の頃は人懐っこく、晩年は決まった事以外の事をしようとすると暴れる気難しい馬へと変遷していった。もとから人の指図を受けるのは嫌いだったこと、見知らぬアメリカの地に渡った事で不安になった等と言われている。
 
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血統構成は、父方母方ともに3代に渡ってテシオの生産馬で占められる事が特徴となっている。テシオは自身の生産した種牡馬をあまり用いず、繁殖牝馬も牝系を育てる一方、毎年多くの馬を購入する事でめまぐるしく変えていた。このような血統構成を持つ馬は他にあまりおらず、いわばテシオにとってリボーは自身の集大成とも言える。
 
=== 血統表 ===
{{競走馬血統表
|name = リボー(Ribot)
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|mmmm = Volcanic [[ファミリーナンバー|F-No.]][[4号族|4-l]]
}}
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* 原田俊治『世界の名馬』 サラブレッド血統センター、[[1970年]]
 
{{先代次代|[[凱旋門賞|凱旋門賞勝ち馬]]|1955年・56年|[[シカボーイ]]|[[オロソ]]}}