「日向 (日蓮宗)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m →経歴 |
||
5行目:
[[安房国]]の尾金に生まれ、13歳で日蓮に入門して出家得度してからは、折伏弘教のため日々各地に奔走した。弁舌に優れ、日蓮門下の論議第一と称された。[[1276年]]、日蓮の使者として、日蓮の旧師・道善房の墓前に赴き、日蓮による旧師追悼のための著述『報恩抄』を朗読するという大役を務めた。[[1280年]]、日蓮より本尊を授与された。同年、日蓮による法華経講義の記録『御講聞書』を著した。日蓮の本弟子六老僧の一人として、日興筆の『宗祖御遷化記録』に「佐土公 日向」とその名が見える。
日蓮の入滅時、不在であった日向・日頂を除く四老僧と居合わせた中老僧とで合議し日蓮の墓所の輪番制を敷いた。六老僧と中老僧12人、計18人での輪番だが、各僧とも布教伝道に多忙で一年に一度
日興が南部實長を弁護する為に五老僧に送った書簡が現存している。もともと南部實長を教化したのが日興であったことや、日興が身延に近い富士を本拠地としていたことから、日興が身延に常住するようになった。当時の書簡によれば、出家し日円と名乗っていた南部實長は日興の身延常住を非常に喜び、日興に身延の別当職に就くよう要請している。しかし輪番にこだわった日興は頑なにこれを拒否し、五老僧や中老僧に対し身延輪番に従事するよう盛んに呼びかけている。その日興の呼びかけに応じたのが日向であった。呼びかけに応じた日向は[[1285年]]身延山久遠寺に登った。日向の身延登山を日興と日円は大変喜んでいる。その後、日向は日円の要請により学頭職に就いた。輪番にこだわっていた日興は、日円の要請を受諾した日向と次第に不仲となり、理由は諸説あるが結果的に身延を離れた。これが現在まで続く日向派と日興派の争いの元となっている。 日興の身延離山後、日向は日円の要請により身延山の別当職に就いた。当時の日蓮遺弟達は日向が日円と懇意なのがよほど不快だったらしく、日昭と日朗とのやりとりした書簡には、日朗が日昭から弟子を比叡山の戒壇で得度させても良いか相談を受けた時に富士の戒壇で日興を戒師として得度させるべきと助言し、身延の日向の法門は禅念仏にも劣ると書かれてしまっている。日朗は、日蓮入滅後富士重須の日興は訪問しているが、身延の日向を訪問した記録は残っていない。また日頂は真間中山を離れた後、身延の日向ではなく富士の日興のもとで重須談所設立に協力している。日頂の弟の日澄は日向の弟子だったにもかかわらず日向と義絶し富士重須談所の初代学頭に就任している。 日持は六老僧の [[1313年]]、日向は身延山別当の地位を日進に譲り、[[上総国]]の藻原に隠居した。翌年、62歳で死去した。
[[1941年]](昭和16年)の三派合同により日興門流の多くの寺院が身延山を総本山と認めている。そのため日蓮宗内には日興を身延二祖にし日向は三祖にすべきとの声も確かにある。
==日蓮六老僧==
|