「日ソ基本条約」の版間の差分

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== 条約調印に至る日本側の背景 ==
 
もともと日本政府の首脳は共産主義への敵視が強かったため、シベリアからの撤兵後も国交正常化の動きには冷淡であった。しかし、ソビエト連邦の安定化とともに、冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。例えば、[[敦賀港]]・舞鶴港(現在の[[京都舞鶴港]]を通して[[沿海州]]と貿易を行っていた関西財界は輸送網を遮断されてしまい、[[オホーツク海]]で漁業を行っていた漁師らは、ソ連の沿岸住民らの妨害にさらされた。このようにして、世論にはソ連との修好回復を望む声があらわれたので、日本も国交正常化に前向きとならざるを得なかった。
 
また、ソ連は極東では混乱の渦中にあった中国との連携を図っており、まず[[1919年]]の[[カラハン宣言]]では、中国との対等関係の樹立、中東鉄道(東清鉄道が改称)の還付を約束し、さらに[[広東省|広東]]の[[孫文]]政権に協力した。日本は満州を根拠とする軍閥[[張作霖]]を篭絡していたものの、反復常なき張を扱いかねていた。こうした中にあって、中国での権益を守るためにも国交回復すべきことを真剣に唱えたのが、初代[[満鉄]]総裁で[[外務大臣]]の経験もある[[後藤新平]]であった。彼はイデオロギーの問題を軽視し、日本が極東で利権を確保するためにはソ連と友好関係を結ぶことが必要であり、また[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン条約]]で日本が列国に閉塞させられた状況を打開するには、国際秩序にソ連を再び引きずり込むことであると考えた。こうして後藤は右翼勢力の反発もありながら交渉に取り組む。