「ジョージ・クルック」の版間の差分

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[[1875年]]から[[1882年]]は[[ネブラスカ州]]ノースオマハにあるオマハ砦を本部とするプラット方面軍の指揮官となった。この期間の[[1879年]]、スタンディングベア隊クルック事件の裁判で[[ポンカ]]族や先住民の権利のために発言した。この年にクルックの家、現在はクルック将軍の家と呼ばれているものが完成した。
[[1882年]]までにクルックはアリゾナでの指揮に戻った。アパッチ族が[[ジェロニモ]]酋長の指揮の下にアメリカ陸軍に対して再び武器を取っていた。クルックは何度もアパッチ族を降伏させようとしたが、ジェロニモは逃亡した。アパッチ族は尊敬の印としてクルックに「ナンタンルパン」と渾名をつけたが、これは「灰色のキツネ」を意味していた。[[ネルソン・マイルズ|ネルソン・A・マイルズ]]がクルックに変わってアリゾナの指揮を執り、アパッチ戦争を終わらせた。このときマイルズはジェロニモ、チリカーワ・アパッチ族およびアメリカ陸軍に仕えるチリカーワ族の斥候を[[フロリダ州]]に追放させた(クルックは自分達の種族に反抗して誠実にアメリカ軍に仕えた斥候たちが同じように扱われたことを怒りショックを受けて、ワシントンに多くの抗議文を電報で送った)。クルックは[[インディアン戦争]]で長い間作戦に関わった後、しっかりと恒久的少将の階級に昇進し、[[グロバー・クリーブランド]]大統領は[[1888年]]にクルックを「ミズーリ軍事地区軍」指揮官に据えた。
クルックは[[1886年]]から[[1888年]]まで[[オマハ]]で再びプラット方面軍指揮官を務めた。クルックがそこに居る間、画家のハーバート・A・コリンズがクルックの肖像画を描いた<ref name="AWCbio">Biography of Herbert Alexander Collins, by Alfred W. Collins, February 1975, 4 pages typed, in the possession of Collins' great-great grand-daughter, D. Dahl of Tacoma, WA</ref>。