「金上盛備」の版間の差分

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[[越後国]][[蒲原郡]]小川荘[[津川城|狐戻城]]主。[[河沼郡]][[金上村]]を領す。
==略歴==
蘆名氏庶流。蘆名四天王の一人に数えられ、その卓越した政治手腕から「蘆名の執権」と呼ばれた。
 
[[1578年]]の[[御館の乱]]の際には、[[上杉景虎]]方として参戦した[[蘆名盛氏]]に従い、[[安田城 (越後国蒲原郡)|安田城]]を攻め落としている。盛氏死後も、後継の[[蘆名盛隆]]に重用され、[[1581年]]には上洛して[[織田信長]]に拝謁、この時信長に盛隆を[[三浦介]]と認めさせる事に成功している。また同年、越後で発生した[[新発田重家]]の乱においても、盛隆に従い重家方として[[上杉景勝]]軍と戦った。
 
[[1586年]]、[[蘆名亀王丸]]の死去に伴い、[[伊達氏]]・[[佐竹氏]]のどちらから養嗣子を迎えるかをめぐって家中が紛糾すると、盛備は盛氏時代からの功臣という実績を以て、[[佐竹氏]]から[[蘆名義広|結城義広]]を迎える案を強行した。([[伊達政宗]]の弟・[[伊達政道|小次郎]]を迎えることに反対した理由としては、政宗が父・[[伊達輝宗|輝宗]]の方針を破棄して反蘆名的行動を繰り返していたこと、輝宗没後に伊達家による新発田重家の乱への介入が打ち切られたことが挙げられる。)ところが、この時義広に従って新たに入ってきた大縄・刎石・平井などの旧・佐竹家臣と、譜代の蘆名氏の家臣団の間に深刻な亀裂が生じてしまい、蘆名氏の弱体化を招いてしまう。そこを政宗につけ込まれ、内応者が続出し、滅亡が決定的になったという。
 
[[1587年]]、新発田重家を助けるべく、[[赤谷城]]の[[小田切盛昭]]の援軍として赴くも敗退。