「ヴャジマ」の版間の差分

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ヴャジマの名は年代記の[[1239年]]の条に初出するが、それ以前から集落があったものと考えられる。当時、ヴャジマは[[リューリク朝]][[スモレンスク公国]]の傍系の所領であった。[[1403年]]、ヴャジマ公は[[リトアニア大公国]]に追われてモスクワへ逃げ、以後[[モスクワ大公国]]で貴族ヴャゼムスキー家となった。その有名な子孫には[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]の親友で自身も詩人であった[[ピョートル・ヴャゼムスキー]]公爵や、フランスの女優・小説家で一時[[ジャン=リュック・ゴダール]]とも結婚していた[[アンヌ・ヴィアゼムスキー]]がいる。
 
[[Image:Spasskaya tower Vyazma2.JPG|thumb|250px|[[クレムリ|クレムリン]]唯一の遺構、スパッスカヤ塔]]
[[1494年]]、ヴャジマはモスクワ大公国に占領されその要塞となった。[[クレムリ|クレムリン]]の塔のうちスパッスカヤ塔だけが今も残る。さらに2つの重要な修道院が作られ、石造りの聖堂もその中に建てられた。そのうち3つの尖塔のある「スモレンスクのオディギトリアの[[聖母マリア|生神女]]」のイコンに捧げられた聖堂は[[1638年]]に完成したものである。同じ修道院には[[1656年]]に遡る聖堂もある。また街の大聖堂は[[1676年]]に献堂された。その他多くの聖堂があるが、ほとんどは[[バロック様式]]で建てられている。
 
[[Image:Vyazma monument.jpg|thumb|left|ナポレオンに対する戦勝記念碑]]
ヴャジマを舞台にした戦いには、[[1812年ロシア戦役|ナポレオンのロシア侵攻]]の最中の[[1812年]]に起こったヴャジマの戦いがある。モスクワから撤退中の37,000人のフランス軍と25,000人のロシア軍が[[1812年]][[10月22日]]にヴャジマ近郊で衝突した。[[ミハイル・ミロラドヴィチ]]率いる前衛と[[マトヴェイ・プラトフ]]率いる[[コサック]]部隊が[[ルイ=ニコラ・ダヴー]]の率いるフランス軍の最後尾部隊をヴャジマの東方で襲い撤退路を塞いだ。[[ウジェーヌ・ド・ボアルネ]]と[[ユーゼフ・ポニャトフスキ]]に救援されたダヴーの部隊はロシア軍による包囲を突破した。しかしこの後のフランス軍によるヴャジマ近郊の高地およびヴャジマ市の確保の試みは成功せず、10月22日の夕方までにロシア軍がヴャジマを陥落させ、フランス軍は火を放って退却した。ロシア軍の犠牲2,000人に対し、フランス軍は6,000人を失い2,500人を捕虜にされる大敗を喫した。
 
[[Image:Vyazma monument.jpg|thumb|left|ナポレオンに対する戦勝記念碑]]
[[第二次世界大戦]]([[独ソ戦]])でもヴャジマは戦場となった。[[モスクワの戦い]]の最中、ヴャジマは[[1941年]][[10月7日]]にモスクワへ進む[[ドイツ国防軍]]の手に落ちた。これに対しモスクワ近郊で踏みとどまった[[赤軍]]は反撃に出、激しい戦いの後に[[1943年]][[3月12日]]にヴャジマを奪還した。街の大半は戦闘で破壊され、戦後に再建された。戦争前に6万を数えた人口は716人にまで減少し、立っていた建物は僅か3つだけだったとされる。今日では鉄道の結節点となり、モスクワ、[[サンクトペテルブルク]]、[[カルーガ]]、[[ブリャンスク]]からの路線が集中する。