「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」の版間の差分

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征服後、[[スペイン|スペイン人]]を頂点とする厳格で抑圧的な[[植民地]]支配の体制が確立されていった。征服後の社会でスペイン人たちは圧倒的な社会的、経済的な力をもち、それを背景に多くのインディオ女性を[[妾]]として性的関係を結ばせた。これによって[[メスティーソ]]の数が更に増加することとなる。また、スペイン人の文化が至上のものとされ、インディオの文化は卑しく醜いものとされた。更に、[[アフリカ]]大陸から多数の黒人奴隷が連行され、北はフロリダ半島から南はラ・プラタ川まで各地で黒人は家内労働やプランテーションでの重労働に従事した。
 
征服活動が一段落したのちは漸次制圧地域の安定化が図られ、南アメリカの[[エンコミエンダ]]制や[[コレヒドール (官職)|コレヒドール]]制、[[ミタ制]]といった植民地支配のための制度の整備は1569年から1581年まで着任したペルー副王[[フランシスコ・デ・トレド]]の統治によって完成した。ミタ制でかき集められ、ポトシの鉱山で強制労働に服したインディオは強制労働によって多数死亡し、「鉱山のミタ」はインディオから恐れられた。 [[ポトシ]]鉱山は1545年に現[[ボリビア]]共和国の南部に当たる地域に発見されたが、その豊富な銀を採掘するためにトレドの改革によって定められたミタ制によって[[ティティカカ湖]]周辺やクスコから集められた人々は酷使されたのである。トレドは1572年に[[水銀アマルガム法]]を導入して銀生産量を上げたが、採掘のために酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われる。このようにインディオは[[奴隷]]や[[農奴]]として搾取され、安価で酷使される[[プロレタリアート]]となってスペイン人の経済活動に奉仕させられた。
 
インディオへのカトリックの布教も大々的に進められ、[[キリスト教]]への改宗と、[[インティ]]や[[パチャママ]]への信仰といった本来のインディオの信仰の廃棄が暴力を背景として進んだ([[強制改宗]])。一方で[[イエズス会]]の[[イエズス会伝道所|布教村落]]が築かれた[[パラグアイ]]などではスペイン・ポルトガル王権からのインディオの保護が進んだ。