「カジミェシュ4世 (ポーランド王)」の版間の差分

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| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[エリーザベト・フォン・ハプスブルク|エリーザベト・フォン・エスターライヒ]]
| 子女 = [[ウラースロー2世]]<br/>[[ヤドヴィガ (バイエルン=ランツフート公妃)|ヤドヴィガ]]<br/>[[カジミェシュ (聖人)|カジミェシュ]]<br/>[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世オルブラフト]]<br/>[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]<br/>[[ゾフィア・ヤギェロンカ (1464-1512)|ゾフィア]]<br/>[[ジグムント1世]]<br/>[[フリデリク・ヤギェロンチク|フリデリク]]<br/>[[アンナ・ヤギェロンカ (ポモージェ公妃)|アンナ]]<br/>[[バルバラ・ヤギェロンカ|バルバラ]]<br/>[[エルジュビェタ・ヤギェロンカ|エルジュビェタ]]
| 王家 =
| 王朝 = [[ヤギェウォ朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]
| 母親 = [[ゾフィア・ホルザンシャニスカ]]
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'''カジミェシュ4世'''(Kazimierz IV Jagiellończyk, [[1427年]][[11月30日]] - [[1492年]][[6月7日]])は[[リトアニア大公国|リトアニア大公]](カジミエラス1世 / Kazimieras, [[1440年]] - 1492年)、[[ポーランド王国|ポーランド王]](在位[[1447年]] - 1492年)。[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]の次男、[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]の弟。
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== リトアニア統治 ==
[[画像:Kazimierz Jagiellonczyk.jpg|thumb|left|180px|[[ヤン・マテイコ]]による肖像画]]
1440年、[[ジギスマンタス・ケストゥタイティス]]が暗殺されてリトアニア大公が空位になると、[[トラカイ県]]の[[ヴォエヴォダ]](県知事)だった[[ヨナス・ゴシュタウタス]]を始めとするリトアニアの大貴族([[マグナート]])たちはカジミェシュを後継にすえようとしたが、ポーランド貴族階級の多くは13歳の彼にリトアニアに行かず、[[ハンガリー王]]を兼ねるために不在の兄王[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]に代わり、ポーランド[[副王]]の役割を果たすよう望んだという。

カジミェシュはリトアニア大貴族の招きで1440年[[ヴィリニュス]]に入城し、6月29日に[[リトアニア貴族会議|貴族会議]]において大公として宣せられた。一連の動きはポーランド貴族の不安を掻き立てながら、主にヨナス・ゴシュタウタスのお膳立てによって進んだ。これにより、個人的な紐帯によって成立していたポーランドとリトアニアの脆弱な[[同君連合]]は解消された。カジミェシュ即位の報はポーランドでは猛反発をもって迎えられ、リトアニアには軍事的圧力までかけられた。カジミェシュが未成年のため政務はヨナスを議長とする貴族会議に委ねられ、幼い大公は宮廷の役人たちにリトアニアの言語と慣習を教わった。
 
カジミェシュの治世下では、公、マグナート、[[バヨライ]](一般貴族)といったリトアニアの貴族階級は、法的権利や地位、信仰、民族性といった面でポーランドの貴族階級との同化が進んでいった。また彼はリトアニアの国境を変更しないこと、リトアニアでポーランドの役人を使わないことを約束し、さらにはリトアニアに関する取り決めには貴族会議の同意を必要とするという決議も了承した。[[サモジティア]]に同地域の[[スタロスタ|王領地代官]]を選出する権利も認めている。カジミェシュはリトアニアで最初の生れながらの[[カトリック教会|カトリック教徒]]の君主である。
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カジミェシュは1447年、兄[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]の死後3年間にわたり空位だったポーランド王位を継承し、1454年に[[ハプスブルク家]]の[[エリーザベト・フォン・ハプスブルク|エリーザベト]]と結婚した。彼女は[[神聖ローマ皇帝]][[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]と、[[ボヘミア王国|ボヘミア王家]]及び[[ハンガリー王国|ハンガリー王家]]の女子相続人である[[エリーザベト・フォン・ルクセンブルク]]の遺児であったが、皇帝位はハプスブルク家の別系統の[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の手中にあった。この結婚は[[ヤギェウォ家]]のボヘミアとハンガリーの王位請求権を強化させることを狙ったものであったが、同時にカジミェシュは皇帝位をめぐる争いに否応なく引き込まれることになった。
 
同じ1454年、カジミェシュは[[ドイツ騎士団]]に対抗する[[プロシア連合]]との同盟を結び、併合によって[[プロイセン|プロシア]]をポーランド領に組み込むことが決まった。しかしプロシア連合がドイツ騎士団への反乱を開始すると、騎士団は予想以上に頑強な抵抗を見せ、[[十三年戦争]]に発展した。カジミェシュとプロシア連合はドイツ騎士団を撃破し、その拠点[[マルボルク城]]を陥落させた。[[トルンの和約 (1466年)|第二次トルンの和約]]でドイツ騎士団は、[[ポーランド王領プロシア]]に対するポーランドの[[主権]]、[[プロシア公領]]に対するポーランドの宗主権を認めるに至った。1457年に妃エリーザベトの弟[[ラディスラウス・ポストゥムス]]([[ハンガリー王]]・[[ボヘミア]])が没すると、カジミェシュ夫妻の関心はラディスラウスの保っていた王冠を掌中にすることへと次第に移っていった。
 
== 子女 ==
*[[ウラースロー2世|ヴワディスワフ]](1456年 - 1516年)…母方の血統的権利から[[ボヘミア王国|ボヘミア]]及び[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の王位を継承した。
*[[ヤドヴィガ (バイエルン=ランツフート公妃)|ヤドヴィガ]](1457年 - 1502年)…[[ヴィッテルスバッハ家]]のバイエルン=ランツフート公[[ゲオルク (バイエルン=ランツフート公)|ゲオルク]]と結婚した。クラクフで代理人による結婚の交渉が行われ、1475年に[[バイエルン]]で「[[ランツフートの結婚式]]」と呼ばれる壮麗な[[ページェント]]を伴う披露宴が行われて、これが祝祭として定着した。
*[[カジミェシュ (聖人)|カジミェシュ]](1458年 - 1484年)…[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の娘[[クニグンデ・フォン・エスターライヒ|クニグンデ]]との縁談があったが、これを断って宗教的な生活を選び、[[リトアニア]]の[[守護聖人]]となった。
*[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン・オルブラフト]](1459年 - 1501年)…ポーランド王位を継承。