「ヨゼフ・ホフマン」の版間の差分

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わずか10歳にして、ヨーロッパ各地とスカンジナヴィア諸国を歴訪して長期間の演奏旅行を行い、神童の名をほしいままにする。[[1887年]]年末から[[1888年]]年頭におけるアメリカ楽旅が、演奏活動の頂点となり、初期の報道機関をその名で大いに賑わせた。その後、演奏旅行から退き、[[アントン・ルビンシテイン]]の個人指導を受ける。(ルビンシテインに個人指導を受けることができたのは、ホフマンが唯一人である。)
 
ホフマンは後半生を[[アメリカ合衆国]]にすごし、[[カーティス音楽学校]]で教鞭を執りながら、[[1938年]]まで同校校長を務める。多くの才能ある学生を育成したが、門下のうちで、国際的な活動へと乗り出すことができたのは、[[シューラ・チェルカスキー]]ひとりだけだった。チェルカスキーは知的な深みだけでなく、この上ないテクニックと[[音色]]において、ホフマンとつながっている。
 
ホフマンは、[[1903年]]から[[1930年代]]まで、少数ながら商業録音を行なった。[[トーマス・エジソン]]社のために、草創期のクラシック音楽のレコードを録音してもいるが、それらは失われてしまっている。だが、[[ロシア]]で制作された[[シリンダー]]は、最近になって再発見された。[[ピアノロール]]にも吹き込みを行い、それによって莫大な収入を得たものの、ホフマン本人は、ピアノ・ロールが自分の演奏を正確に再現しているとは信じていなかった。このような不信感は、アコースティック録音にも抱いていた。このためホフマンは、自分はどんな曲でも二度とは同じように演奏しないと述べている。ホフマンのいくつかの生演奏を放送用に録音したものは現存しており、このすべてが[[コンパクトディスク|CD]]に復刻されている。この音源は、ほとんどの愛好家から歓迎されたが、他人の手により編集されたために、演奏についての評価は分かれている。
 
ホフマンは非常に小さな手をしており(だが人並外れて丈夫な手だった)、他の有名な手の小さいピアニストのように難儀していた。[[スタインウェイ・アンド・サンズ|スタインウェイ]]社はホフマンのために、鍵盤の狭い特ピアノ(1オクターヴごとに1/8インチ狭い)を造った。これをホフマンは、心持ち楽だと述べたという。
 
[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]は、ホフマンを自分の作品の最善の解釈者と認めて、『[[ピアノ協奏曲第3番 (ラフマニノフ)|ピアノ協奏曲第3番≫を]]』献呈した。しかし、ホフマンはこれを演奏しなかった。小さな手の持ち主に、この献呈は間違いだったのである。しかも、最初の夫人マリーによると、ホフマンはラフマニノフの協奏曲が、形式を欠くと見なして、一顧だにしなかったという。ホフマンのもう一人の恩師[[モーリッツ・モシュコフスキ]]も、自作の協奏曲をホフマンに献呈したが、やはりホフマンは演奏しなかった。ありがちなことだが、ホフマンは、ライヴァルの作曲するピアニストが書いた協奏曲を、演奏したいとは望まなかったのだろう。
 
ホフマンは、出版譜を尊重する姿勢から、最初の「モダンな」ピアニストと見なされているように、他の[[ロマン派|ロマン主義]]のピアニスト(たとえば[[イグナツィ・パデレフスキ]]や[[ヴラディーミル・ド・パハマン]]の有名な例)とは対照的に、譜面から飛躍して独自の極端な解釈を導き出すことはなかった。しかしながらホフマンは、この上ない技術的能力や詩的情感、音色、想像力に恵まれていた。その反面、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の『[[バラード第4番 (ショパン)|バラード第4番]]』の燃え盛るような演奏(「カシミール・ホールにおける歴史的演奏会」、[[1938年]])は、ホフマンの演奏様式がいかにアントン・ルビンシテインに近しく、いかに冷戦後のピアニストとは違っているかを物語っている。
 
ホフマンは[[1911年]]に、同時並行して行なった10の演奏会で、別々の256曲を演奏すると言う記録を打ちたて、[[ロシア]]の聴衆を驚かせた。ホフマンの百科事典的な浩瀚なレパートリーは、そのほんの一部が、録音によって伝えられているにすぎない。それでも現在、20世紀の偉大なピアニストの一人と評価されている。