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'''ツェツィーリア・レナータ・フォン・ハプスブルク'''('''Cäcilia Renata von Habsburg, Erzherzogin von Österreich''', [[1611年]][[7月6日]] - [[1644年]][[3月24日]])は、[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ4世]]の王妃。[[ポーランド語]]名ではCecylia Renata Austriaczka, またCecylia Renata Habsburzanka。
== 生涯 ==
神聖ローマ皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]と最初の妃[[マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1574-1616)|マリア・アンナ・フォン・バイエルン]]の娘として、[[グラーツ]]で生まれた。1637年にヴワディスワフとワルシャワで結婚、同じ日に聖ヤン大聖堂で戴冠した。若く精力的なツェツィーリアは、自分の好み通りに宮廷を変え始めた。彼女は親ハプスブルク・親カトリックの立場で、[[イェジー・オッソリンスキ]]や[[アルブレフト・スタニスワフ・ラジィウ]]と同盟した。彼女の政敵は、王の旧友で王を影響下においていた[[アダム・カザノフスキ]]で、彼は王の結婚後追放された。カザノウスキはのちに彼女の敵の一人[[ピョトル・ゲムビツキ]]と手を組んだ。ツェツィーリアは、結婚してからはじめの2、3年間は、要職の任命に多くの介入をした。しかし、1638年頃からヴワディスワフが[[ハプスブルク家]]からはわずかな援助しか期待できないと悟ると、ツェツィーリアの助言を無視しはじめ、彼女の権力は衰えた。
 
ツェツィーリアは、ジグムント・カジミェシュ(1640年 - 1647年)、マリア・アンナ・イザベラ(1642年 - 1643年)の2子を生んだが、2人とも夭折した。ツェツィーリアは1644年に[[ヴィリニュス]]で亡くなった。