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在官中は、[[佐橋滋]]の強い影響の下、政府指導の下での国内調整的な産業政策を重視するいわゆる通産省統制派といわれる官僚として活躍、特に黎明期の[[日本]]の[[コンピュータ]]産業育成で大きな貢献をした。特に、[[池田敏雄]]を産業界のパートナーとして進めたとされる[[三大コンピューターグループ]]の形成は、世界的に[[IBM]]が独占しようとしていたコンピュータ産業において、日本企業が生き残る道を開いたと評価される。後に産業公害課長、基礎産業局総務課長、[[国土庁]](現・[[国土交通省]])[[長官官房]][[審議官]]などを経て、[[大分県]][[副知事]]に。[[1979年]](昭和54年)の[[知事]]就任と相次いで「一村一品運動」を提唱、当時イメージの薄かった大分県を全国に知らしめた。知事を6期24年と、異例の長期間務め、[[2003年]]([[平成]]15年)に退任。
 
[[関西大学]]政策創造学部客員[[教授]]。
 
座右の銘は「継続は力なり」。