「北京空港事件」の版間の差分

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[[文化大革命]]発動以降、中国共産党は各国の共産党に対し、盛んに毛沢東思想を宣伝した。(日本共産党によると「干渉と攻撃が加えられた。」)
 
1966年の宮本顕治と毛沢東の会談以降、[[日中共産党の関係]]が悪化した
 
[[1967年]][[2月28日]]から同年[[3月2日]]にかけ、[[日中友好協会本部襲撃事件|善隣学生会館事件]]が発生し、日本共産党民青同盟員らによって組織されたゲバルト部隊の「正当防衛行為」により、中国人学生の寮である後楽寮の寮生ら華僑学生や中国人支援に訪れていた日本人の7名が、重傷を負った。
 
[[1966年]][[9月19日]]、中国からの招待を受け、中国[[北京飯店]]の一室を仕事場としていた紺野は、日本人留学生から嫌がらせや暴力を受けた。だが、中国側は留学生を取り締まろうとしなかったという。これを機に、紺野は北京飯店から[[和平賓館]]に移されることとなった。
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同年10月3日、中国が[[人民大会堂]]にてレセプションを開催。紺野、砂間を除いた北京在住の日本人が招待された。このときの乾杯の音頭は、「日中友好を破壊しようとするものをけとばすために乾杯」であった。この「日中友好を破壊しようとするもの」は、日本共産党のことを示していた。参加した日本共産党員の中には、日本人留学生らに暴力をふるわれた者もいたという。
 
[[1967年]][[2月28日]]から同年[[3月2日]]にかけ、[[日中友好協会本部襲撃事件|善隣学生会館事件]]が発生。
 
度重なる嫌がらせや暴力を目の当たりにし、身の危険を感じた紺野、砂間は党中央に帰国を要請。これを受けて、党中央は両名への即時帰国命令を出した。