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{{基礎情報 中国君主
'''段興智'''('''だんこうち'''、生年不詳 - [[1260年]]、在位:[[1251年]] - [[1253年]])は、[[大理国]]の22代国王。後大理国の8代国王。[[段祥興|孝義帝]]の子。諡号は'''向義天定賢王'''。
|名 =段興智
|代数 =22
|呼称 =王
|画像 =
|説明 =
|王朝 =大理
|在位期間 =[[1251年]] - [[1253年]]
|都城 =
|諱 =段祥興
|字 =
|諡号 =向義天定賢王
|廟号 =
|生年 =不詳
|没年 =[[1260年]]
|父 =[[段智祥]]
|母 =
|皇后 =
|陵墓 =
|年号 =[[天定 (大理)|天定]] : [[1252年]] - [[1253年]]
|注釈 =
}}
 
'''段興智'''(だんこうち)は[[大理国]]の22代国王(後大理国としては第8代)。
[[1251年]]、即位した。[[1252年]]、[[利正]]と改元した。以後、[[興正 (大理)|興正]]、[[天定 (大理)|天定]]といった元号を建てた。ときに大理国は[[モンゴル帝国]]の[[クビライ]]の軍の侵攻を受けて、段祥興は相国の高泰祥に迎え撃たせたが、高泰祥は敗死した。段興智は鄯闡に逃れて抵抗を続けた。[[1253年]]、モンゴルのウリャンカダイに敗れて捕らえられ、憲宗モンケの引見を受け、一命を許された。大理総管に任ぜられて、モンゴルによる[[雲南]]の平定に従った。[[1260年]]、クビライの謁見を受けるため、弟の[[段実]](段信苴)とともに北上したが、道中で世を去った。[[1261年]]、後理国向義天定賢王の位を追贈された。
 
[[1251年]]、即位した。[[1252年]]、[[利正]]と改元した。以後、[[興正 (大理)|興正]]、[[天定 (大理)|天定]]といった元号を建てた。ときに大理国は[[モンゴル帝国]]の[[クビライ]]の軍の侵攻を受けて、段祥興は相国の高泰祥に迎え撃たせたが、高泰祥は敗死した。段興智は鄯闡に逃れて抵抗を続けた。[[1253年]]、モンゴルのウリャンカダイに敗れて捕らえられ、憲宗モンケの引見を受け、一命を許された。大理総管に任ぜられて、モンゴルによる[[雲南]]の平定に従った。[[1260年]]、クビライの謁見を受けるため、弟の[[段実]](段信苴)とともに北上したが、道中で世を去った。[[1261年]]、後理国向義天定賢王の位を追贈された。
 
大理総管の地位は段実が継いで、以後も段氏によって世襲された。[[1267年]]、クビライの子の[[フゲチ]]が雲南王に封ぜられると、段氏の大理総管もその麾下に組みこまれた。フゲチの子孫の雲南王国は[[梁王国]]とも称される。