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== 経歴 ==
[[1935年]]、[[ドイツ]]・[[デュッセルドルフ]]近郊の街フェルバートで生まれる。10代で[[エッセン]]のフォルクヴァング・スクールにてJ.B.シュレーに師事し、17歳で首席[[オーボエ]]奏者としてフライブルク・フィルハーモニー管弦楽団に入団。[[1957年]]、22歳の若さで[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席[[オーボエ]]奏者に就任する。1959年、[[プラハの春 (音楽祭)|プラハの春]]国際音楽コンクールで優勝。[[1970年]]代に入ると[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]時代のベルリン・フィルのスタープレーヤーとして黄金期を支える。[[1979年]]10月、演奏旅行中で到着後の[[北京市|北京]]空港でタラップからの転落事故に遭い重傷を負うが、闘病生活の後に復活し、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリン・フィル]]に復帰。[[1991年]]9月、34年間にわたり首席を務めてきた[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリン・フィル]]を退団し、10月[[ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院]]教授に就任、後進の指導にあたる。[[1993年]]、[[サイトウ・キネン・オーケストラ]]に首席[[オーボエ]]奏者として参加。[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の交響曲第7番の録音に参加する。[[1995年]]、生涯最後となる来日。[[東京都交響楽団]]定期演奏会に客演(R.シュトラウス協奏曲)したほか、[[武蔵野音楽大学]]などで講習会を開く。[[2003年]][[3月16日]]、壊疽との闘病の末、没。
最初の来日は1957年のベルリン・フィルで、新人(試用期間)として数曲でトップを吹いた。因みにその他のメンバーは[[カール・シュタインス]]、ヘルムート・シュレーフォークト、ゲルハルト・シュテンプニクで、現在でも時折放映される「運命」の画像には4人が揃って映っている。
1970年代になってソロ・リサイタルや室内楽でも盛んに来日を重ね、[[小林道夫]]やコンタルスキーとの共演を披露したが、80~90年代には健康の衰えを感じさせる場面もあった。晩年にはTBSテレビ「オーケストラがやって来た」にも出演、新日本フィルの[[鈴木清三]]の呼びかけで収録当日に可能な限り多くのオーボエ奏者が集まり、大合奏を行なった逸話もある。