「カヴァラ (ギリシャ)」の版間の差分

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紀元前168年、[[共和制ローマ]]の市となり、[[フィリッピの戦い]]以前の紀元前42年には[[マルクス・ユニウス・ブルートゥス]]と[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス]]の基盤となった。使徒[[パウロ]]はヨーロッパへの最初の航海の際、カヴァラへ上陸した。[[東ローマ帝国]]時代、町はクリストーポリス(Christoupolis)とギリシャ人から呼ばれ、地元の[[ブルガリア人]]からはモルネツ(Morunets)と呼ばれていた。
 
カヴァラは1371年から1912年まで、[[オスマン帝国]]の一部だった。16世紀半ば、[[スレイマン1世]]のギリシャ人大宰相イブラヒム・パシャは、水道の建設によってカヴァラの成長と繁栄に貢献した<ref>{{cite journal|last = Kiel|first = Machiel|date=1971|title = Observations on the History of Northern Greece during the Turkish Rule: Historical and Architectural Description of the Turkish Monuments of Komotini and Serres, their place in the Development of Ottoman Turkish Architecture and their Present Condition|journal =Balkan Studies|volume =12|pages = 416}}</ref>。オスマン帝国は、[[パナギア]]の丘にある東ローマ帝国時代の要塞を拡張した。どちらも今日、市の象徴となっている。
 
1952年までエジプトを治めた[[ムハンマド・アリー朝]]の創建者、[[ムハンマド・アリー]]は、1769年にカヴァラで生まれた。彼の生家は博物館として保存されている。