「松本幸四郎 (4代目)」の版間の差分

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| 妻 =
| 子 = [[松本幸四郎 (5代目)|五代目松本幸四郎]]
| 当たり役 = 『極付幡随長兵衛』の幡随院長兵衛<br />『[[仮名手本忠臣蔵]]』の天川屋義兵衛<br />『伽羅先代萩』の絹川谷蔵
}}
 
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[[京都]]の生まれ。はじめ江戸の[[瀬川菊之丞_(初代)|初代瀬川菊之丞]]門人で瀬川金吾。1744年([[延享]]元年)春中村座で初舞台。若衆役として活躍するが、1754年([[宝暦]]4年)11月江戸[[市村座]]『けいせい浅間鐘』で瀬川錦次の名で立役。その後一時舞台を離れるが、1756年(宝暦6年)[[市川團十郎_(4代目)|四代目市川團十郎]]の門に入り復帰。市川武十郎となる。師が主催した若手俳優養成塾の「修業講」で懸命に学んだことが評価され、1762年(宝暦12年)初代[[市川染五郎]]を襲名。翌年二代目[[市川高麗蔵]]を襲名。その間着実に力をつけ、1772年([[安永]]元年)11月[[中村座]]の『大鐙海老胴篠塚』で四代目[[松本幸四郎]]を襲名する。
 
時代物、世話物に通じ、多くの役をこなした。特に天川屋義兵衛、幡随院長兵衛などの男伊達や絹川谷蔵などの力士役を得意とした。門閥外から幹部に出世するだけあってかなりの研究熱心でもあった。それだけに性格も強く、[[市川團十郎_(5代目)|五代目市川團十郎]]ら出演者としばしば衝突した。とくに[[尾上菊五郎_(初代)|初代尾上菊五郎]]とのトラブル確執は有名で、菊五郎が憤慨のあまり舞台で幸四郎に小道具を投げつけ観客に怒りの口上を述べ、怒った幸四郎が菊五郎につかみかかるほどの大騒ぎとなった。この事件を根に持って菊五郎は京に帰ってしまい、後年幸四郎が上方に客演した際は、上方劇壇から嫌味をいわれたという。
 
晩年は性格も温厚になり、1801年(享和元年)息子の三代目市川高麗蔵に五代目幸四郎の名跡を譲り、自らは男女川京十郎<small>(おめがわきょうじゅうろう)</small>を襲名、ほどなく死去した。墓所は東京[[押上]]の大雲寺。
 
四代目幸四郎によって確立されたリアル写実的な芸風は続く五代目幸四郎によって完成されたといわれている。
 
{{先代次代2
|タイトル = [[画像File:4hanaYotsubishi hishi03inverted.pngjpg|22px]]  <span style="color:#FFFFFF">[[松本幸四郎]]</span>  [[File:Fuse-chō inverted.jpg|22px]]
|背景色 = #afafb0999797
|先代名 = [[松本幸四郎 (3代目)|三代目松本幸四郎]]
|現代名 = 四代目松本幸四郎<br /><small>1772–1801</small>
|次代名 = [[松本幸四郎 (5代目)|五代目松本幸四郎]]
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