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'''呂 祖謙'''(りょ そけん、[[1137年]] - [[1181年]])は、[[中国]][[南宋]]時代の学者。[[]]は伯恭。東萊先生と称される。
 
 
== 略伝 ==
*婺州([[浙江省]]金華県)の出身。
*学者の家に生まれ[[林之奇]]・[[汪辰]]・[[胡憲]]などに学ぶ。1163-64年に[[進士]]となり、同時に博学宏詞科にも合格する。
*太常博士に國史院編修官・実録院検討官となり、領土の回復を[[孝宗 (宋)|孝宗]]に説き聖学について論じ、『[[徽宗]]実録』では政治についても述べている。
*当時出版界では『聖宋文海』という誤謬の多い書が出回っており、孝宗が臨安府にこの本の校正・刊行を命じたところ、学士・[[周必大]]はその事業が困難であると説いたが呂祖謙は仕事を完成させ、『皇朝文鑑』の名を賜った。
*[[1178年]]に官著作郎に任命され、史院編修官を兼ねていたが、その年に54歳で没する。
 
*同時代の[[張ショク|張栻]]・[[朱熹]]を友とし、東南の三賢と並び称された。博識で文辞が豊かであり、詩書春秋では古義を究め、十七史に通じていた。
 
== 著作 ==