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[[ファイル:Drogoslaw.PNG|thumb|200px|チャプリンスキ家の紋章。]]
'''ダニエル・チャプリンスキ'''([[ポーランド語]]:Daniel:'''{{lang|pl|Daniel Czapliński}}'''、? - Czapliński;?‐[[1660年]]後)は[[ポーランド・リトアニア連合]]の[[ブラツラウ]]地方出身のポーランド系[[シュラフタ|貴族]]である。[[1646年]] - [[1648年]]の間に[[チヒルィーン]]町の副長官ならびに、[[ウクライナ]]における[[アレクサンデル・コニェツポルスキ]]の戦隊長と官吏を勤めた。
 
'''ダニエル・チャプリンスキ'''([[ポーランド語]]:Daniel Czapliński;?‐[[1660年]]後)は[[ポーランド・リトアニア連合]]の[[ブラツラウ]]地方出身のポーランド系[[シュラフタ|貴族]]である。[[1646年]]‐[[1648年]]の間に[[チヒルィーン]]町の副長官ならびに、[[ウクライナ]]における[[アレクサンデル・コニェツポルスキ]]の戦隊長と官吏を勤めた。
 
== 概要 ==
ダニエル・チャプリンスキは[[ウクライナ・コサック]]の頭領[[ボフダン・フメリヌィーツィクィイ]]の宿敵として知られる。[[1647年]]にチャプリンスキは、フメリヌィーツィクィイの留守を狙って[[スボーチウ]]村のフメリヌィーツィクィイの知行地と屋敷を襲い、財産を奪って幼い子息[[オスタプ・フメリヌィーツィクィイ|オスタプ]]を殺害した。それに、フメリヌィーツィクィイの恋人であった[[モトローナ・チャプリーンシカ|モトローナ]]も奪い、強制的に自分と結婚させを強要した。フメリヌィーツィクィイはあらゆる裁判所と[[ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)|ポーランド王]]に提訴していたが、チャプリンスキの主人たるアレクサンデル・コニェツポルスキによって牢屋に閉じ込められた。しかし、フメリヌィーツィクィイは牢屋からコサックの根拠地[[ザポロージャ]]の[[シーチ]]へ逃げ出すことができ、国内統制に対して不満を募らせていたコサックを集めて[[フメリヌィーツィクィイの乱|大規模な反乱]]を起こした。[[1648年]]にコサック軍がチヒルィーン町に迫った時、チャプリンスキは妻のモトローナを捨てて逃亡した。来年、フメリヌィーツィクィイとモトローナは結婚した。
 
乱中にチャプリンスキはポーランド側でコサックと戦い、[[1649年]]の[[ズバーラジュ城の包囲|ズバーラジュ城の攻防戦]]や[[1651年]]の[[ベレステーチュコの戦い]]などに参陣した。[[1653年]]にチャプリンスキは[[ルブリン]]におけるポーランド王国裁判所への議員として選ばれた。
 
[[1660年後に]]以降チャプリンスキの名前が史料に出てこないため、1660年後に死亡したと思わ考えらている<ref>[http://litopys.org.ua/velichko/vel05.htm {{lang|uk|Величко С. В. ''Літопис''. Т. 1. / Пер. з книжної української мови, вст. стаття, комент. В. О. Шевчука; Відп. ред. О. В. Мишанич.— К.: Дніпро, 1991.— 371 с.}}]</ref>。
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
*{{ja icon}} 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)
*{{uk icon}} {{lang|uk|Смолій , В. А., Степанков, В. С. ''Богдан Хмельницький'', Альтернативи, 2003.}}
 
{{DEFAULTSORT:にえるちやりんすき}}
[[Category:ポーランドの貴族]]
 
[[pl:Daniel CzaplińskiDaniel_Czapliński]]
[[uk:Данило_Чаплинський]]
[[uk:Данило Чаплинський]]