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'''佐々 成政'''('''さっさ なりまさ'''、[[天文 (元号)|天文]]5年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]?([[1536年]][[2月6日]]) - [[天正]]16年[[5月14日 (旧暦)|閏5月14日]]([[1588年]][[7月7日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[安土桃山時代]]の武将。[[尾張国]]出身。父は佐々盛政(成宗(盛政とも)。通称内蔵助。官位は従五位上[[陸奥守]]従四位下[[侍従]]。[[家紋]]は棕櫚。[[馬印]]は金の三階傘
 
== 生涯 ==
[[佐々氏]]は[[尾張国]][[春日井郡]]比良城に拠った土豪。[[宇多源氏]][[佐々木氏]]の一族という。兄に隼人正、孫介がいたが、相次いで戦死したため、家督を継ぐ。
=== 織田家直参時代 ===
[[佐々氏]]は[[尾張国]][[春日井郡]][[比良城]]に拠った土豪。[[宇多源氏]][[佐々木氏]]の一族という。兄に隼人正、孫介がいたが、相次いで戦死したため、家督を継ぐ。[[信長公記]]首巻によれば、成政は[[織田信長]]暗殺を企んだことがあったというが、信長の[[馬廻]]りから戦功を重ねて頭角を表し、[[黒母衣衆]]の筆頭に抜擢された
 
=== 府中三人衆時代 ===
[[織田信長]]の馬廻りから戦功を重ね[[黒母衣衆]]の筆頭に抜擢。のちに北陸方面の軍団長[[柴田勝家]]の与力となり、[[前田利家]]・[[不破光治]]とともに越前府中を与えられ府中三人衆と称せられ、北陸[[一向一揆]]の平定に功績をあげた。
成政は鉄砲の扱いに長けていたと言われ、[[長篠の合戦]]では鉄砲隊を率いて活躍した。のちに北陸方面の軍団長[[柴田勝家]]の与力となり、[[前田利家]]・[[不破光治]]とともに越前府中3万3000石を与えられ[[小丸城]]を築いて居城とし、[[府中三人衆]]と称せられた。府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、かなり独立した織田軍の遊撃軍的存在で、[[石山本願寺]]攻めや[[播磨]]平定、[[荒木村重]]征伐などに援軍として駆り出されることが多かった。
 
=== 越中時代 ===
信長軍団が北陸に攻め入った当時は、[[越中国]]一円と[[能登国]]の一部に至るまで[[上杉氏]]の影響下にあり、それに加えて[[顕如]]率いる一向一揆を制圧する必要があった。成政は越中国西部を支配した後、1581年に[[越中国]]の守護となり、[[富山城]]に入城し[[富山市|富山]]を本拠地とした。越中国攻略にあたり、成政は同国の守護代の系譜である[[神保氏張]]を家臣に加え、内政・軍事両面を支えさせた。
1580年頃より対[[一向一揆]]・[[上杉氏]]の最前線にある[[越中国]]平定に関わるが、1581年2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の[[神保長住]]失脚により一国守護となり、[[富山城]]に大規模な改修を加えて居城とした。[[本能寺の変]]が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点[[魚津城]]を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も[[羽柴秀吉]]に先を越され、同じように対峙していた[[毛利氏]]と和睦して[[中国大返し]]を成し遂げた秀吉とは明暗が別れた。
 
明智征伐後の[[清洲会議]]において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、成政は柴田方につくが、[[賤ヶ岳の合戦]]には上杉軍への備えのため越中を動けず、合戦に参加出来なかった。成政は勝家を滅ぼした秀吉に対して徹底抗戦の構えを見せていたが、越中一国を安堵され矛を収めた。しかし翌天正12年[[小牧・長久手の合戦]]が始まると、成政は[[徳川家康]]・[[織田信雄]]方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対して[[末森城の合戦]]が起こった。ところが秀吉・家康らとの間で和議が成立し進退が窮まると、成政は家康に再挙を促すため、厳冬の[[飛騨山脈|北アルプス]]・[[立山]]山系を越えて[[浜松市|浜松]]におもむいたが、家康はそれに応じなかった。(世に言う「[[さらさら越え]]」)
[[本能寺の変]]の際、成政は柴田勝家とともに上杉軍の[[魚津城]]を攻撃中のため身動きが取れなかった。そして信長を失った直後に、機に乗じた上杉氏の猛攻に遭い、魚津城や越中国東部一帯を失ったが、態勢を立て直し越中国全域を平定した。越中国は成政の完全支配によって、目まぐるしい支配交代の時代を終えた。
 
翌1585年、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した。秀吉の裁定に依り、一命は助けられたものの越中国東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後[[御伽衆]]として秀吉に仕えた。
信長の死後は、北陸方面の軍団長であった柴田勝家に味方する。賎ケ岳の戦いで勝家が滅びると、背後に秀吉と和睦した上杉勢を抱え、途中で秀吉方に翻った利家が越中との国境に砦を築き成政を刺激するという状況となった。そして前後両方から呼応して小規模な攻撃を受け続け、進退極まる立場に追い込まれた。その結果として、成政は[[徳川家康]]らと結び、[[小牧・長久手の戦い]]で羽柴秀吉([[豊臣秀吉]])に対抗する。
 
=== 肥後時代 ===
ところが、秀吉・家康らとの間で突然和議が成立すると再挙を促すため、厳冬の[[飛騨山脈|北アルプス]]・[[立山]]山系を越えて家康のいる[[浜松市|浜松]]におもむいたが、家康はそれに応じなかった。(世に言う「さらさら越え」)その後も、利家と上杉の両面攻撃を受けながらも、持ちこたえていたが既に大勢は決していた。
1587年の九州平定で功をあげたことを契機に、[[肥後国]]に転封となっ一国を与えられた。そこで、[[太閤検地]]を行おうとするが反対の一揆が起こり、失政の責めを受け[[摂津国]]尼崎法園寺にて切腹した。享年53(諸説あり)。
 
[[辞世の句]]「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」
1585年、秀吉が自ら越中に侵攻し、富山城を攻め、成政は降伏した。(この時に秀吉が陣を張った場所は「[[太閤山]]」として地名が残っている。)その後、秀吉の裁定に依り、越中国東部の新川郡を除く全ての領土を没収された。
 
=== 人物 ===
1587年の九州平定で功をあげたことを契機に、[[肥後国]]に転封となった。そこで、[[太閤検地]]を行おうとするが反対の一揆が起こり、失政の責めを受け[[摂津国]]尼崎法園寺にて切腹した。享年53(諸説あり)。
大の秀吉嫌い、猪突猛進型の猛将として描かれることが多いが、後世に作られた物語などで脚色された影響が大きい。中世の越中は河川の氾濫による水害に悩まされていたが、成政は僅か数年に過ぎない越中統治期間に堤防を築き水害を防いだため領民に慕われた。堤防は済民堤、佐々堤と名付けられ現在もその遺構が残る。
 
=== 家族・子孫 ===
[[辞世の句]]「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」
**正室(慈光院)[[村井貞勝]]の娘。男子がなく、女子ばかり五人がいた。
*長女(随泉院)家臣松原五郎兵衛室
*次女(岳星院)佐々清蔵室 後、[[関白]][[鷹司信房]]室
*三女(光秀院)信長七男[[織田信高]]室
*四女(松寿院)家臣神保氏興室
*五女 山岡景以室
他に絵師[[狩野孝信]]に嫁いだ女子がいたともいう。
 
**男子がないために[[佐久間盛政]]の弟の勝之など何人かの養子がいたが、家督は継承されず直系の子孫はない。傍流の子孫に水戸黄門の介さんこと[[佐々木介三郎]]、作家の[[佐々淳行]]氏などがいる。
 
==佐々成政の埋蔵金伝説==
地元伝承の歌
「朝日さす夕日かがやく鍬崎に、七つむすび七むすび、黄金いっぱい光りかがやく」
 
== 関連項目 ==
* [[鍬崎山]]-佐々成政の埋蔵金伝説]]
*[[太閤山]]
*「越登賀三州志」(加賀藩士-富田景周著)
 
*「[[武功夜話]]」(吉田雄■(かつかね)著)-資料価値に疑義があるとの説あり。
 
[[Category:戦国大名|さつさなりまさ]]
[[Category:戦国武将|さつさなりまさ]]
{{生没年|さつさなりまさ|1536年|1588年}}
 
☆【佐々成政と女達】
 
 成政には松千代丸雄助政元女(神保氏張妻)をもうけている
 兄加賀守政次の男清蔵には子があり五郎四郎重勝がいた,甥の清蔵が亡くなり,五 郎四 郎と養秀院佐々娘養秀院を娶る狩野孝信
 と二人の姉は隋泉院(松原直元室)妹岳星院を成政が預かる
 その四郎を隋泉院は娘の婿養子にした
 二人の間には権兵衛・勘兵衛成清・信濃守・の三人が出来た
 成清は桑山家に任官したが、改易となり興福寺別当信賀大僧正の推挙にて、
 興福寺坊官福智院家の養子となり、舜恕と言ふ。
 休西(信濃守)は摂政鷹司房信に仕え、男子宇左衛門(号・休閑)は播州浅野家に
 仕え、妹は石塚毎好に嫁し、女理玖が生まれた。(大石蔵之介室)[児島宮祭主]
☆『福智院家文書』は系図では関白忠通の子、つまり忠実の孫になっている
 これは系図に従うと関白鷹司家との繋がりが明かす
 関白鷹司家と近衛家との縁戚はさらに島津重豪とも縁が広がりこの一族の系統は
 天皇にまで縁戚があった
 
 関白 鷹司信房の子鷹司信尚 生没年:1590-1621 内覧 左大臣従一位 妻:清子内親 王(父:後陽成天皇)
 1609-1668 教平
 娘(花山院定好室)
 鷹司教平 鷹司房輔 妻:(父:長門萩藩初代藩主 毛利秀就)
  鷹司輔信妻: 689-1746 八重子(義父:征夷大将軍 徳川綱吉、徳川吉孚室)
 娘(長門萩藩四代藩主 毛利吉広室)
 娘(花山院常雅室)  
 
 源実朝室  坊門信清の娘西八条禅尼1193-1274
 足利義晴室慶寿院1514-1565近衛尚通の娘
 足利義輝室近衛稙家の娘近衛稙家の娘
 徳川家光室鷹司孝子(本理院)1602-1674鷹司信房の娘
 徳川綱吉室鷹司信子(浄光院)1651-1709鷹司教平の娘
 徳川家宣室近衛熙子(天英院)1660-1741近衛基熙の娘
 徳川家斉室近衛寔子(広大院)1773-1844島津守重豪の娘。近衛右大臣経熙養女
 徳川家定室近衛敬子(天璋院)1836-1883近衛忠熙の養女。島津斉彬養女。実父忠 剛は斉彬の叔父
 黒田長政養子助九郎長興佐久間信盛次男(秋月初代)
 佐久間信盛女(母前田種利女)佐々政次の男清蔵に嫁す                    「児島宮刊行会」