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'''李時珍'''(りじちん、[[1518年]]-[[1593年]])は、字を'''東璧'''、号を「瀕湖仙人」といい、[[中国]]・[[明]]の[[医師]]で[[本草学者]]。中国[[本草学]]の集大成とも呼ぶべき'''『[[本草綱目]]』'''や奇経や脉診の解説書である『瀕湖脉学』、『奇経八脉考』を著した。
 
蘄州(きしゅう、現在の[[湖北省]]蘄春県で現在も病院の跡が残されているという)で代々医師を務める家に生まれた李時珍は幼い頃から、父・李言聞(字・月池)の助手をしながら育った。<br>

父は『医学八脈考』・『人参伝』と言った医学書を執筆するほどの名医であったが、当時の医師の社会的身分の低さから息子には医業を継がせずに[[科挙]]に合格して官僚になる事を望んでいた。だが、子供の頃から病弱だった李時珍は医学への思いが絶ちがたく、23歳の時に父に懇願して医学を学ぶ事を認めてもらうのである。
 
彼の医学の才能はたちまちに開花して数年後には名医として湖北一帯に名を知られ、明の皇族である楚王までが彼を頼るようになった。そして李時珍34歳の時に明朝における医学の最高機関であった「太医院」に推薦を受けて[[北京]]に赴いたのである。だが、彼には中央の役人は性にあっていなかったらしく一年後には帰郷をして再び地元で医業を始める事となった。
 
中国の本草学は[[黄帝神農氏|神農]]が編纂全ての薬草、毒草を食て作ったといわれる(実際は[[後漢]]時代?)に編纂されたと考えられている)黄帝[[神農本草経]]』を原典として、多くの増補が繰り返されてきた。だが、時代が下るにつれて名称や薬効についての誤りや重複、遺漏が多数含まれるようになっていった。李時珍はこれを憂慮して新しい本草学書の編纂を志したのである。<br>参考にした書物は800種、彼自身も多数の薬物の実物を収集して研究を重ねて26年の歳月を費やし、その間に3回の校訂を重ねて遂に61歳の時に『本草綱目』全52巻190万余字をもって完成させたのである。
 
だが、当時の医学・本草学の世界では、『本草綱目』が聖典視されていた『黄帝神農本草経』などの説や配列・構成に対しても訂正を加えた事などから李時珍に対して激しい糾弾が浴びせられる事となり、その出版は事実上閉ざされる事となった。だが、李時珍に理解を示す人たちの奔走で[[1593年]]に[[南京]]の出版業者・胡昇竜が出版に応じ、また時の皇帝[[万暦帝]]への献上の機会を得る事になった。だが、この直後に李時珍は病に倒れて急死してしまうのである。献上された『本草綱目』は万暦帝から賞賛されて、出版に便宜が図られる事になった。
 
この本は日本などの周辺諸国のみならず、[[ラテン語]]などのヨーロッパ語にも訳されて、世界の[[博物学]]・本草学に大きな影響を与えたのである。