「多古町」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Point136 (会話 | 投稿記録)
m bot:導入部などのスタイル修正
編集の要約なし
36行目:
 
==歴史==
*[[縄文時代]]:[http://www.pref.chiba.jp/syozoku/e_bunka/bunkajyouhou/bunkaisan/choukoku/kouko/tako09.html [丸木舟]]など、縄文時代の[[遺跡]]が多数発見されている。
*[[弥生時代]]:稲作が盛んになり、現在でも「多古米」はブランド米として知られる。
*[[古墳時代]]:[[房総]]最古の[[埴輪]]が発見された全長71.5mのしゃくし塚古墳に代表される柏熊古墳群や、74mの北条塚古墳を有する北条塚古墳群、そして小川土仏古墳群、内野古墳群、坂並白貝古墳群、淀台古墳群、飯土井台古墳群などの群集墳が数多くあり、[[九十九里浜]]から[[香取海]]へ通じる要衝であった。
*[[室町時代]]:[[馬加康胤]]の裏切りに遭い、千田庄(現在の多古町)に逃れて再起を図った[[千葉氏]]18代当主・[[千葉胤宣]]が[[康正]]元年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[1455年]][[9月23日]])に多古城の近くの阿弥陀堂で、胤宣の父・[[千葉胤直|胤直]]は[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]([[9月26日]])に東禅寺で、胤直の弟・[[千葉胤賢|胤賢]]も[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]([[10月17日]])に[[坂田城#支城|小堤城]](現在の[[横芝光町]]小堤)で自刃、千葉氏宗家の嫡流が滅亡した。千葉氏宗家に仕えていた[[飯篠家直]]は、この様を目の当たりにし武芸をもって[[武士]]として生きることに虚しさを覚えた。そして厳しい修行の末「兵法とは平和の法なり」との悟りを得、[[天真正伝香取神道流]]を創始したと言われる。
*[[平安時代|平安]]前期:九十九里浜から香取海、さらに[[陸奥国]]への交通の要衝であり、[[延暦]]16年([[797年]])には[[坂上田村麻呂]]が東征の途中[[松崎神社]]に参拝したと伝えられている。
*平安後期:房総[[藤原氏]]の領した[[千田荘]](現在の多古町)は[[上総国|上総]][[下総国|下総]]両国の中心であったが、[[治承]]4年([[1180年]])に[[千田親政]]([[平忠盛]]の婿で、[[平資盛|資盛]]の伯父)が[[源頼朝]]に敗れ<ref>九十九里浜の名前のいわれに頼朝伝説があり、49本目の矢を立てた所が[[山武市]]蓮沼の[[五所神社 (山武市)|箭挿神社]]とされ、99本目の矢を立てた[[旭市]]の矢指ヶ浦に矢指神社があり、100本目の矢を多古町の次浦に埋め、矢指塚と呼ばれた。</ref>、以後[[千葉氏]]の所領となった。
*[[室町時代]]:[[馬加康胤]]の裏切りに遭い、千田庄(現在の多古町)に逃れて再起を図った[[千葉氏]]18代当主・[[千葉胤宣]]が[[康正]]元年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[1455年]][[9月23日]])に多古城の近くの阿弥陀堂で、胤宣の父・[[千葉胤直|胤直]]は[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]([[9月26日]])に東禅寺で、胤直の弟・[[千葉胤賢|胤賢]]も[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]([[10月17日]])に[[坂田城#支城|小堤城]](現在の[[横芝光町]]小堤)で自刃、千葉氏宗家の嫡流が滅亡した。千葉氏宗家に仕えていた[[飯篠家直]]は、この様を目の当たりにし武芸をもって[[武士]]として生きることに虚しさを覚えた。そして厳しい修行の末「兵法とは平和の法なり」との悟りを得、[[天真正伝香取神道流]]を創始したと言われる。
*[[江戸時代]]:[[徳川家康]]の[[江戸]]入府に伴い、[[保科正光]]が[[多胡藩|多古]]に入部した(その後、松平(保科)家は[[高遠藩]]を経て子の[[保科正之|正之]]は[[会津藩]]主)。[[天領]]時代を経て、松平(久松)家嫡流の[[松平勝義|勝義]]が多古を領し、[[廃藩置県]]まで松平(久松)家の領地であった。
===沿革===
82 ⟶ 85行目:
**[[道の駅多古]]
===路線バス===
*[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]
*[[千葉交通]]
**[[千葉交通多古営業所|多古営業所]]
 
==名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事==
*[[松崎神社]]
*[[日本寺 (多古町)|日本寺]](中村檀林)
*[[千田城]]
 
==特産品==
*多古米
*やまといも(生産量全国2位)
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
==外部リンク==