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== 霊峰富士 ==
古くは、『[[常陸国風土記]]』に富士山の神と[[筑波山]]の神の逸話が記されている。[[親神]]が富士山の神のもとを訪れ、宿を乞うたが、富士山の神は物忌み中だと言う理由で宿泊を拒否した。親神は次に筑波山の神のもとへいき、同様に宿を乞うたところ、今度は親神は歓迎された。そのため、筑波山には人々が集まるようになり、反対に富士山には絶えず雪が積もり人々が来なくなったという。
=== 富士詣・富士見山 ===
 
『[[本朝世紀]]』によると[[1149年]]([[久安]]5年)に末代(まつだい、[[富士上人]])が山頂に一切経を埋納したと伝えられており、現在も富士山頂出土と伝えられる[[埋納経]]が浅間大社に伝わっている。
 
[[平安時代]]の文学の『[[更級日記]]』には、富士山の神が、[[朝廷]]の次の年の除目(人事)を決めると当時の一部の人々には思われていた記録がある。
 
[[徳川家康]]が[[1777年]]に[[浅間大社]]に土地を寄進した経緯で、富士山の8合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、浅間大社の[[境内]]となっている。但し、[[静岡県]]、[[山梨県]]の県境が未確定のため、土地登記はしていない。
===富士山本宮浅間大社===
富士山頂には[[富士山本宮浅間大社]]の奥宮があり、富士山の神と[[コノハナノサクヤビメ]]を祭る。コノハナノサクヤビメは「[[火の神]]」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「[[水の神]]」とされている。富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは時期・由来とも明らかではない。
 
=== 富士・富士見山 ===
[[江戸時代]]になると、富士山の登拜が[[庶民]]の間でも広く行なわれるようになった。これは[[戦国時代]]から江戸時代初期([[16世紀]]後半から[[17世紀]]前半)に[[富士山麓]]の人穴で修行した[[角行藤仏]]([[天文]]10年([[1541年]])-[[正保]]3年([[1646年]])がおこなった[[富士信仰]]から始まるとされる。庶民は富士山への[[信仰]]を強くし、特に[[江戸]]の各地には富士山を遥拝する[[富士塚]]が多く作られた。富士塚は土を盛って作られた[[人工]]の小さな[[山]]で、富士山がよく見えるところに作られ、[[山頂]]には浅間神社が祀られて、富士山に行くことが出来ない人たちでも擬似的に富士山の登拜を体験することができるようにするものである。
 
こうした富士山信仰の高まりを受け、江戸時代には富士山信仰を基盤とした神仏混交の新宗教が多数登場した。新宗教は江戸で布教を行い富士講を組織して、[[幕府]]にとっても無視できない規模になることもあり、幕府が富士講禁制の町触を出すこともしばしばであった。例えば、[[1774年]]から[[1849年]]に、[[江戸町奉行所]]は7回の禁制の町触を出している。これらの新宗教は[[明治]]期の激動を潜り抜け、今でも実行教・丸山教・扶桑教などと脈絡を保ち続いている。
 
== 関連項目 ==
*[[依り代]]