「神体山」の版間の差分

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出典求めるというより、1616年に死去している徳川家康が1777年に寄進することは不可能なので文章の誤りか脱落があると思われます。
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[[平安時代]]の文学の『[[更級日記]]』には、富士山の神が、[[朝廷]]の次の年の除目(人事)を決めると当時の一部の人々には思われていた記録がある。
 
{{要出典範囲|[[徳川家康]]が[[1777年]]に[[浅間大社]]に土地を寄進した経緯|2009年3月15日 (日) 09:50 (UTC)}}で、富士山の8合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、浅間大社の[[境内]]となっている。但し、[[静岡県]]、[[山梨県]]の県境が未確定のため、土地登記はしていない。
===富士山本宮浅間大社===
富士山頂には[[富士山本宮浅間大社]]の奥宮があり、富士山の神と[[コノハナノサクヤビメ]]を祭る。コノハナノサクヤビメは「[[火の神]]」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「[[水の神]]」とされている。富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは時期・由来とも明らかではない。
 
===富士講・富士塚===
[[江戸時代]]になると、富士山の登拜が[[庶民]]の間でも広く行なわれるようになった。これは[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から江戸時代初期([[16世紀]]後半から[[17世紀]]前半)に[[富士山麓]]の人穴で修行した[[角行藤仏]]([[天文 (日本)|天文]]10年([[1541年]])-[[正保]]3年([[1646年]])がおこなった[[富士信仰]]から始まるとされる。庶民は富士山への[[信仰]]を強くし、特に[[江戸]]の各地には富士山を遥拝する[[富士塚]]が多く作られた。富士塚は土を盛って作られた[[人工]]の小さな[[山]]で、富士山がよく見えるところに作られ、[[山頂]]には浅間神社が祀られて、富士山に行くことが出来ない人たちでも擬似的に富士山の登拜を体験することができるようにするものである。
 
こうした富士山信仰の高まりを受け、江戸時代には富士山信仰を基盤とした神仏混交の新宗教が多数登場した。新宗教は江戸で布教を行い富士講を組織して、[[江戸幕府]]にとっても無視できない規模になることもあり、幕府が富士講禁制の町触を出すこともしばしばであった。例えば、[[1774年]]から[[1849年]]に、[[江戸町奉行所]]は7回の禁制の町触を出している。これらの新宗教は[[明治]]期の激動を潜り抜け、今でも実行教・丸山教・扶桑教などと脈絡を保ち続いている。
 
== 関連項目 ==